山下壮起『ヒップホップ・レザクション』(新教出版社)
孤独だったろうか。
わざわざ喧伝するのも何だけれど、他人から言われた言葉をそのまま使うならば、僕は機能不全家族でネグレクトされたDVの被害者ということになるらしい。
「なるらしい」と記したのも、辛かったように感じることもなくはないが、どこもかしこもそんなものだろう、と深刻になったことがなかったからだ。
考えていたことは、早く高校を卒業して家を出ることだった。当時の経済感覚でいうと、大学の学費と生活費を併せて年に200万ちょっと稼げばどうにかなった。長期休みにバイトを増やせば別に不可能な数字ではなかったのだ。
当時の僕にとって自由とは安い代物だった。ちょっと寝なかったり、軽くお腹を空かしていたり、価値観から人並みを引き算すれば易々と手に入る程度のものだった。
そのかわり恨んだり妬んだりしている暇などなかった。
慰撫してくれたものも数多くあった。図書館、古本、名画座、ライヴ、画廊巡りなどなど幾らでもあった。
安酒も忘れてはならないだろう。それの肴は音楽だった。いつも。
泣き言、恨み辛みを零すなら、せめて音楽のようにありたい。音楽のレベルまで昇華したいと思っていた。ミンガス、ドルフィ―、アイラーのようなレベルにまで引き上げられたときに初めて思考は哲学たり得るだろうと信じていた。今も?
Nasはラップした。
Whaen I was 12, I went to hell for snuffing Jesus
俺は12のとき、イエスをどつき倒して地獄に堕とされた
インタビューで彼はこのリリックについて以下のように述べている。
イエスが俺のために何をしてくれたっていうんだ。俺はクイーンズ・ブリッジにいるんだぜ。イエスがクイーンズ・ブリッジに来るわけがない。もし来たとしても、それはイエスじゃなくて、もっと力強く深い存在なんだよ。
僕は寿町というドヤ街の同じ区画、松影町で暮らしていた。
だから思う。
Nas、あんたの言うイエスは人が捏造した偶像だ。
もっと力強く存在は常に傍にいる。顕現するかは運みたいなものだ。
なじるのは御門違いだ。
しかしNasには音楽があった。それは救済の糸口になるものだと思う。
究めるべき、極めるべき対象があるというだけで、既に救われたようなものだと思うのだ。
また貧しさという環境は、死を実存的問題として日常化し、日常はそのまま形而上的空間となる。それは Notorious B.I.G.のReady to Dieに現れているとも思う。
宗教の持つ大きな意味の一つは、生の中の死を意識させることにある。
ラップが生まれた世界が豊饒であるかどうかは、ハイデガー的な問題になるだろう。
いずれ確実に自分の存在そのものが不可能になる。死を運命として自覚的に受け入れる。単なるポップ・ミュージックで終わるか否かは死への先駆が次第だ。実際に死が訪れる前に、死の方へ先走っていき、そこから自分の人生をとらえ返すことが可能か。
死への先駆によって現存在は自分の将来の可能性を問うことになり、同時に、過去から与えられた自分の条件を引き受けることでもある。
ハイデガーに従うならば、死の覚悟がある者だけが、「良心の呼び声」に応えることができる、死がいつでも訪れるという状況の中で初めて、今それをなすべきかが倫理的な選択になるからだ。
ときどき何十年か前に流行ったマンガの台詞をもじってこう呟く。
僕は既に死んでいる
そう口にするとき、まだ僕にも良心の欠片がありそうに思える。いや、逆に死の自覚なしには僕に良心は存在しないのかも知れない。
ところで此処数日、新しい関心が湧いてきた。
祈りである。なぜ「~しますように」と祈るのだろうか。カーラ・ブレイの演奏を聴いていると、わざわざ言葉にすべきことではないように思うのだ。
川瀬一馬『夢中問答集』(講談社)に興味深い話があった。
ある人が寺に詣で本尊に毎年願い事をしていたが、一向に叶う気配がないので、仏教には霊験がないのでは?と訊ねた。ある禅僧はこう答えたという
世の人々の願いとは往々にして、愚かな欲望に基づくものである。
それを叶えてしまえば、ますます欲望の塊となってしまう。仏菩薩の願いは、欲望に振り回される人々を救うことになるのだから、願いを叶えないことこそがその慈悲なのだ。
Nasならどう思うのだろう。
死を賭した祈りすら愚かな欲望とされるとしたら 、Nortious B.I.G.の死の先駆性の価値はどれだけなんだろう。
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