釣りの腕と未来

自分の人生において、もう入れないかもしれない大好きな川があるって人はどれだけいるのだろうか。ある人は加齢による体力減退であったり、ある人は転地しての暮らしであったり。

しかし、僕はいつでもいける距離にありながら、そこで竿を出すことはままならない。いや、大した罪にはならないし、やろうと思えばできなくはない(しないけど)。そもそも、そこで釣りができなくなったのには、大変ややこしい理由があるから、その辺すっ飛ばしてやりたいことやるというのもある種の理屈だとは、私人としての僕は思うのだった。

僕がフライフィッシングを覚えた川は、原発事故の影響により遊漁が制限されたままだ。

あれから幾星霜、やればやるほど、釣りの、フライフィッシングの奥深さと可能性は思い知らされるばかりであるし、かつての自分の熱量の低さ(当時はそれでも釣りが大好きだと胸を張っていたのだが、今の僕からしたら時間を無為に消費している身の程知らずの馬鹿である)も同時に知ることとなっている。もっと色々とやれたはずだった。釣りの可能性を信じきれていなかった。その時点の自分の腕と見識で、傲慢にも可能性を切り捨てていた。

あんなポテンシャルの川は中々なかったと思う。色々な釣り場を渡り歩いて思うことだ。特に、ヤマメのいい釣り場っていうのはありそうでない。しかし其処には確実に存在していたのだ。

魚は過去に逃げるというが、毛鉤を投射するのは常にフォワードキャストであるし、僕が生きているのは三次元である。時間の方向づけはどうにもならない。釣り場そのものが過去に逃げ込んでいる場合に、自分はどうしたらいいのか。

前のめりに釣りに向かっていく自分のマインドと、素晴らしかったあの釣り場とは、不可逆的に距離が離れていく一方なのか。求心力の外側に射出されたままなのか。

東電も許さないけど、僕は厚生労働省も許さない。