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ハワイの歴史に学ぶサイレントインベージョン

割引あり

ハワイの歴史の概要

ハワイ州観光局のページからまとめてみます。

  • ハワイの歴史は十数世紀も前にさかのぼる。

  • 1,500年前、マルケサス諸島のポリネシア人が無人島だったハワイ島に最初に到達。カヌーで3,200km以上を航海。

  • 500年後にはタヒチから多くの移住者が到達。カプ(タブー)による厳格な社会階層を導入。酋長による土地分割の争いが頻発。

  • 1778年、キャプテン・クックがカウアイ島ワイメア湾に上陸。

  • 1791年、ノース・コハラ生まれのカメハメハがハワイ島の敵対勢力を統一。

  • 1810年にハワイ諸島全域を統一してハワイ王国が誕生。

  • 1819年、カメハメハ大王の死後1年未満で息子がカプを廃止。

  • 1820年、最初のプロテスタント宣教師がハワイ島に上陸

  • カプの終焉後に失われていたハワイの人々の価値観を刷新。

  • 西洋由来の病気で、ハワイ先住民の多くが落命。

  • 1893年ハワイの経済をほぼ支配していた米国からの入植者が、ハワイ王国支持者であるハワイアンと対立しながらも、王国を平和的なクーデターで転覆

  • 1898年、米国の属領化。

  • 1959年、米国50番目の州に。

上の歴史概要では簡単に記されている平和的なクーデターが、国が平和的に奪われるとき、どのような経緯をたどるのかの実例を示しています。

憲法発布とハワイ王国の終焉

カメハメハ王は積極的な西欧との接触を図り、武器や造船、その他の生活必需品の製造技術、牛と馬という新たな家畜の導入などを熱心にすすめ、その際に白人の力を借りることをためらわなかった。

https://www.y-history.net/appendix/wh1402-060_1.html

クックの到来から32年で成立したハワイ王国に対して、西洋人たちは、積極的に取り入り、影響力を強めるように働きかけていたものと思います。

砂糖産業と移民の増加 次いでハワイに導入されたのがサトウキビであった。西アジア原産のサトウキビはスペイン人によって西インド諸島などに持ち込まれ、さらに気候の合うハワイにもたらされてアメリカ人によって砂糖プランテーションが作られた。当初はハワイ人を労働力としていたが、間もなく不足するようになって中国人の移民が急増し、1868年4月からは日本人移民※もやって来るようになった。こうして砂糖産業がハワイ最大の産業となっていった。

https://www.y-history.net/appendix/wh1402-060_1.html

ハワイ王国の経済の中心となっていく砂糖産業がアメリカ人の手に握られ、移民も増やされていっています。

アメリカ人の圧力強化 カメハメハ王は憲法を制定し西欧風の立憲君主政を導入した。法律の制定や、経済の運用など実際の政権運営でも多数のアメリカ人が顧問として迎えられ、彼らの存在はハワイ王国では不可欠になっていった。またアメリカからはキリスト教宣教師が多数来島し、学校教育の導入などを助けながら布教に努めた。そのうちにハワイ王国の中枢は白人の大土地所有者、商人、宣教師に占められるようになり、彼らにとって次第にカメハメハ王朝の国王の存在は無用なものとみられるようになっていった。
 1875年にはアメリカはカラカウア王と条約を結び、ハワイからアメリカへ精製前の砂糖を関税なしで輸出できるようにする代わりに、ホノルルの西数十キロのところにある真珠湾(パールハーバー)をアメリカ以外の国貸与しないという取り決めを行い、そこに海軍基地を建設することとした。1875年頃から砂糖業が盛んになるとさらにアメリカ人入植者が増加し、アメリカへの併合を主張するようになった。

https://www.y-history.net/appendix/wh1402-060_1.html

王政から立憲君主制に変えたハワイですが、アメリカ人を顧問として迎え入れ、学校教育や宗教によりハワイ人たちに価値観が植え付けられていきます。その一方で経済の中枢を握られて、ハワイがハワイ人のものではなくなっていっています。

ホノルル・ライフルスの憲法改正強制  アメリカ人入植者らは1887年に秘密結社ハワイ同盟を結成し、独自の武装組織ホノルル・ライフルズといわれる部隊を編成し、カラカウア王に圧力をかけ、王権を制限し白人が優位に立つ議会の権限を強化した憲法改定を認めさせた。この憲法は銃剣によって脅されて制定したので「銃剣憲法」といわれている。このようなアメリカ人入植者によるハワイ王国支配に対して反発したハワイ人は、1889年に反乱を起こした。その指導者はアメリカ人と先住民の混血の青年ロバート=ウィルコックスという人物で、彼は自由愛国協会を組織し、ハワイ王国の王権の回復、先住民の地位向上などを掲げた。

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アメリカ人の入植を認め、宣教師による布教を認め、国を強くするために白人の協力を積極的に得ようとし、民主化のために憲法を制定してみた結果、銃剣によって脅されて、白人優位の議会の権限を強化してしまうことになりました。当然反乱がおきますが、この反乱の指導者もアメリカ人との混血の青年ですから、もしかしたら仕込みなのかもしれません。

最後のハワイ女王  ハワイ王国は立憲君主政をとり、諸外国とも外交関係を持つ独立国家であった。それに対するアメリカの介入圧力は次第に強まっていった。1891年、カラカウア王はアメリカ訪問中にカリフォルニアで急死(これも毒殺ではないか、といううわさがあった)、代わって妹のリリウオカラニが女王となった。リリウオカラニはカメハメハ大王の血筋を引く女性で、アメリカ人のジョン=ドミニス(オアフ島知事)を夫としてアメリカ文化にも親しんでいたが、ハワイ王国を守る強い意思も有していた。
 1893年1月、リリウオカラニ女王は、1887年に強要された憲法を廃棄すると議会に通告した。この憲法は立憲君主政とはいえ国王には権限が与えられず、何よりも選挙権が財産で制限されたことでハワイ人は実質的に参政権が奪われていた。この強硬姿勢にアメリカ人の併合推進派は驚き、直ちに強く反発して、ホノルル・ライフル隊を宮殿に乗り込ませて武力制圧した。これは武力クーデタであり、同時にアメリカ公使も海兵隊を上陸させて圧力を加えるありさまだった。リリウオカラニ女王のもとで少数の王国派は存在し、ハワイの民衆も女王を支持、一時は騒然としたが、1月17日、ついに女王は退位し、ハワイ王朝は滅亡した。<猿谷要『ハワイ王朝最後の女王』2003 文春新書>

https://www.y-history.net/appendix/wh1402-060_1.html

教訓

日本でも、外国人参政権を認めさせようとしたり、移民を増やす必要性を政財界が主張したり、共生社会を目指すのだと首相が発言したりしています。江戸時代には何とか食い止めたキリスト教も次第に影響力を増しているように感じます。多くの一流私大学がキリスト教系だったりします。横田空域のように首都上空を押さえられていたり、TPPに参加させられたりと、ハワイの歴史と重なるところを感じます。特にバブル崩壊後は、日本人の収入を減らし、子どもを産み育てにくい環境を作って、ハワイ人を政治に参加できにくくしたことと同じような効果がステルスで実施されて行っていることを感じます。

マスコミは民主化をよいことのように伝えますが、民主化の狙いは、このような侵略行為を正当化することにあると私は考えます。

いずれにしても、経済活動を中心に社会を作り上げ、利益の上がるところを一部の人たちが掌握していこうとする動きが近代の歴史なのでしょう。この道は進むべき道ではないと私には思えます。

上で紹介したハワイの歴史については、ハワイ州観光局のページでも詳しく紹介されています。


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