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「正義」は誰のために

世界はもう滅茶苦茶である。

インターネットの普及により個々人の思想が可視化され、どんな意見を述べても「私の思想に対する侵害だ!」という人が出るようになってしまった。

それらの個々思想を一旦でも横に置いておくと、突如炎上し徹底的に糾弾される。

そのため政治家は自らの信念を捨て、彼らのご機嫌取りに奔走し、具体的な政策を決定・推進しきれずにいる。

滅茶苦茶だ、議論が進むわけがない。

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古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、あらゆる万物はその役目を全うするべく生まれ、それを果たすことが『善』であり、人の『善』を問う最上位観念が「政治」だと考えた。

僕はこの考えに賛同する。

政治は人の役目ーすなわち人の『善』を追求する場であり、個々の思想は下位観念として政治に従属する。そして、政治家は自身が信じた『善』を「正義」として持ち、政治的指導の指揮を行うのだ。

大衆のご機嫌取りに奔走され、言動が右往左往する政治家にはその「正義」は失われている。

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古代から多くの哲学者が人に普遍的かつ共通の「正義」を追求してきたが、その発明には至っていない。現代の哲学では最早その議論をすること自体がほぼない。

人類共通の「正義」はもはや存在しないと考えられるだろう。

しかし、現代人は義務教育で道徳として人としてあるべき姿を習い、生きていく中で様々な経験を得て個々の正義感を観念を醸成していく。

なぜ個々の正義感を養い、やがて個々の正義を持つことが求められるのだろう?

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この題について僕は、現代において自らの正義は、人類としての「善」の追求ではなく、自分にとって正しく生きるためにのみ求められると考える。

「自分にとって正しく生きる」、これができている人がどれだけいるだろうか。

それは自身の正義を言語化を通して認知し、その概念と自分の実在をすり合わせる行為である。

行動しない自分に対し自己嫌悪に陥った際、なぜ自分はその行動をすべきと考えているのかを言葉にし、実行動との相違点を自問することができるだろうか?

他人の言動に嫌悪感を持った時に、その嫌悪感を発露するのではなく、その感情の発生源である自身の正義を言語化し、他人に伝えることができるだろうか?

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「私の思想に対する侵害だ!」と声高に叫ぶ人は、その思想、または嫌悪感の根源である自身の正義を説明できるのだろうか。世間を見ている限り、そこをないがしろにする人が大半に思える。

アインシュタインは「常識とは18歳までの偏見の寄せ集めである」という言葉を残したが、これは自身の正義は他人から見たら偏見だというメタ認知の末に出た痛烈な皮肉だろう。

ニーチェにより「神は死んだ」と絶対的な存在は人による虚構であるとされ、人類共通の「正義」など存在しないことが白日に為りつつある昨今。自身の正義は他人のためでも、世界のためでもなく、「自分にとって正しく生きる」ために養う必要があるという認知はとても大事なことが気がしてならない。

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