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葉が一つ、一つと落ちていくような

「こんな時間に帰って家でなにしろって言うのぉ」

テレビから流れる音楽が19時を知らせた頃、私の向かいで顔を赤くさせた明石さんは眉毛をへにゃりと困らせてそう言った。

23になった私と80をとうに過ぎたらしい明石さんがともに机を囲むのは、東京から都会らしさを排除させたようなローカルな駅を北に10分ほど歩いたところにある居酒屋で偶然に居合わせた時だけである。

私は数ヶ月に一度フラッと1人でここを訪れるのだが、明石さんはほぼ毎日居座っているので、偶然に居合わせるというよりは私が訪れた時。と記載する方が正しいのかもしれない。

そんな常連客たちがまるで我が家のようにくつろぐ店内は、それこそ親戚の集まりのようで優しい無礼が横行している。

「明石さん雨の日は来ちゃダメだって言ったでしょ!」
とホール担当のお姉さんがいう。
(本当はおばさんと言うべきお年頃なのだが、私はいつもお姉さんと呼んでいる。)

そして有無を言わさず明石さんからスマートでない携帯を取り上げて、慣れた手つきはタクシーを呼びつけようとしていた。

長い眉毛をハの字に困らせた明石さんは「嫁さん死んじまったんだよー」と私に言った。
私は思わず大きな声を出してしまったが、それが明石さんの目や眉をさらに悲しくさせたことに気づいて、すぐに冷静さを纏い直した。

そのあと私から何かを探ることはせず、明石さんからこぼれる悲しみや虚勢を出来る限り発散させるべく尽くしていた。

明石さんは奥さんをたくさん傷つけたらしい。
たくさん苦労をかけたらしい。
いつも3歩後ろの方から「歩くのが早い」と頬を膨らませていたのがどうにも懐かしくて、今でも時折立ち止まってしまうらしい。
感謝なんてものを伝える隙すらくれずに、ポクっと逝ったらしい。

常連客の偽親戚一同は、明石さんが雨の日に外出して、転んでしまうのを危惧している。
だけど明石さんはそうやって死ねるのならそれでいいらしい。
返事一つない住み慣れた家に一人でいると、葉が1枚また1枚と落ちていくようで、お酒を飲む以外はどうしようもないらしい。
私は明石さんに生きていてほしいけど、明石さんを日々苛む退屈を埋めることはできない。

お姉さんはお酒をくるくるとかき混ぜながら、「別に話聞かなくていいからねー!!!」と私を気遣った。
私は「全然!楽しいから!」とお姉さんまで届くように少し大きな声で言った。

奥さんとこの店にいたの頃の明石さんは自由でお話し好きな困った人で、あぁこりゃ奥さん大変だ。って思っていたけれど、一人ぼっちになった明石さんは冬を前にして落葉した細い木々のようだった。

わたし、またここに飲みにくるからさ。
半月に一回はくるよ。
わたしあと100回は明石さんの自慢話が聞きたいよ。

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