過去かっこ

つい最近、親友にこんなことを言われた、「れおは、みんなの選択肢の中で最善の一手を選んできたように見える」。一見すると、知的で良い選択のような気もする。しかし、仮にそのその過去の選択が自分の価値観を持たずに、ただ社会的高みを目指す為の選択だとしたら、それはなんとつまらないものであろうか。そういうわけで、過去振り返ってみることにする。大したことはないが、経歴が他人とかぶることが少ないので、珍奇なものを見る目で見てほしい。まず最初に自分で選択という選択をしたのは、小学6年の時にアメリカに一年行くことを決めた時だ。母の故郷であるアメリカ中西部のウィスコンシンには夏休みに何度かいったことがあった。行くたびに壮大なアメリカの自然や違う生活様式を感じるのが楽しみでしょうがなかった。夏休みに飛行機に乗って異国に行くこと自体が刺激だった。一年行こう思ったのは、何かを学ぶためではなく、楽しそうなところに旅行に行く感覚だった。実際行ってみて、刺激が豊富で、日本で過ごした小学校5年間以上の思い出がその1年で作られた。帰国して地元の中学に進学し、受験期に塾にはいった。卓球部にいたことが幸いし、周りがオタクで勉強ができたため、図らずともいい塾と勉強仲間に恵まれた。進学先の高校は塾以前の成績では行けなかったと思う。中学生の段階では自分が出来るものと好きな物がイコールだったため英語系のコースに進んだ。高校に進学すると、海外に同じように興味がある同志のような人がたくさんおり、好奇心旺盛な奇人達に恵まれ刺激的な日々を送った。彼らはのちの僕の人格形成に大きな影響を及ぼすことになるが、選択肢も限られれおり特に悩むことなく学力と興味で学校を決めた。高校2年の時に、中国に1年留学した。初めはアメリカに行ったことがあることもあり、自分は留学しようかなんてものは念頭にもなかった。先に言っておくが、前もって行動することが僕は本当に、この年になっても不得意である。周囲がどんどん応募していく中、締め切りの日にふと行きたい気持ちが高まった。動機は覚えていない。締め切りはその日の終わりのホームルームまでだった。その日の午後の全体集会の中、僕は前の友達の背中を借りて志望理由を書き、掃除時間中に母に電話をして承諾をもらい、いつも勝手に押すためにカバンの中に入れていたハンコで書類に押印した。大多数がアメリカを志望し、特別な目的があった奴はヨーロッパを選んだ。天邪鬼の僕は、PM2.5や反日デモが騒がれる中国に行った。なんでみんなアメリカに行きたがるんだろう、中国だって大国だし、経済すごいじゃないかという気持ちはあった。打算的なところもあったが、中国の異質感に好奇心をくすぐられたところもあった。中国の1年もやはり刺激的で、今でもよく思い返すことが多く、そこでの思い出はこれからの人生においても忘れられない財産となるだろう。奇遇にも今この記事を書いているカフェでは、中国の二胡と笛の音楽が流れている。留学先の高校は、たまたま上海1位の高校で、海外進学コースがある学科があった。海外の優秀な人材は国内ではなく、世界に目を向けていることに衝撃を受け、それに自分もならおうと思った。帰国後はそのまま進級することも選べたが、同じ時期に留学していた同級生も受験的に学年をやり直すことを選択しており、とりあえず僕もそれにならった。一番安全な選択。しかし帰国すると、留学していたメンバーでさえ、日本の大学に行くための受験勉強をしていた。僕の当時の日本の大学の印象は、偏差値で決めたさして興味もない学部に入り、ろくに授業も受けずにサークルに入り、バイトで稼いだ小銭で酒を浴びるというもの。高校生の僕からしたらそんなイメージなのに、日本の大学はどんな魅力をもってして皆をつらい受験に狂わせ、そのみんなにはなにが見えているのかが疑問でしょうがなく、たくさんの本を読み、たくさんの人に話を聞いた。しかしなにをしても、日本の大学に行く意味が僕には分からなかった。それに加え、刺激的な留学生活と平凡な日本の生活とのギャップに苦しみ、残った1年半の高校生活は、とてつもなく空虚だった。アメリカの大学に行くことを決め、現地の6月入学までの期間を使い、自分の価値を証明するために早稲田大学を受験し、少し間だけ通った。期限付きだったものの、東京への上京、エリート大学への帰属感、選ばれた同級生との交流、サークル内のバカ騒ぎは意外にもとても楽しかった。楽しみに関してはアメリカでの大学4年間に比べ物にならないものだ。今思えば、高校でのもがきは海外に出たいという僕の選択を奇妙がる他人の為の答え探しだった。石橋をたたく作業。道理でどれだけ答え探しをしてもしっくりこないわけだ。早稲田に行ったのも、他人と完全に違うことをする不安感を補うためか、経験を持って否定するためか、自分の判断に自信が持てなかっただけなのかもしれない。逆算的思考を押し売りする、経済学の機会費用などに代表される様な、選んでもない選択肢のことにさえ理性的解釈を求める社会にいともたやすく迎合してしまった。アメリカに渡米してからは短大のようなところ2年通い、そこから4年制大学に編入する計画だった。高校と違い、日本人でもまったく違う境遇の人がいて、会話が通じず、始めは心底がっかりした。でも友人になにかを求める考えが間違っていたものだと発見した。アメリカ人とはそりが合わず、あちらも無関心のようで、他国の留学生としか友達になれなかった。意欲が満たされず、悶々とした留学生活を過ごした。叩いて渡った石橋の数々。

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