社会的監獄にとらわれた、自分と看守


人はなぜ深夜の無人の信号が赤に変わると止まり、青になると歩き出すのか。誰も見ていない道でもポイ捨てをしないのか。フランスの哲学者ミシェル・フーコーの理論の中で最も著名なものに「パンオプティコン」というものがある。始めはフランスの監獄の建築を起点として、やがて思想として社会全体に広まった。18世紀にイギリスで発案されフランスで広まった円形の監獄では、看守が中心にいてそれを取り囲むようにしてセルが配置されており、光の入り方を利用することにより、看守からは囚人が見えるが囚人は見られているかが分からない建築方式が成立した。これにより、囚人は見られているか見られていないかが分からないため、より強く監視の目を気にすることになる。監視の目が分からなくなることによって、囚人は自分の中に監視を目を生み出し、自分の看守となってを自己を律するようになる。これこそが、パンオプティコンの真髄であり、建築方式としてだけなく、様々な分野にも影響することとなる。

フーコーは哲学者であるが、監獄を使った統制された社会の仕組み、ひいては社会学の核である社会的影響で個人が自己統制するありさまををうまく捉えている。人間は社会的な生き物であり、様々な社会的な枠組みの中で生きている。その枠組みを形成するのが社会的事実である。社会学の父エミール・デュルケームは、社会的時事(Social Facts)を科学的に調べることが社会学を心理学や哲学から差別化するものだと考えていた。倫理、法律、社会的規範、言語などは社会的事実である。特徴としては、①外的②制約的③一般性④独立性がある。例にコトバを取ってみると、それは自分で生み出すものではないので外的で、文法などの制約に乗っ取らなければならず、コトバとして通じるため一般性があり、こうしたいと個人的に考えても変えられるものではない独立性がある。

その中でも、パンオプティコン的な自己統制によって個人にとって問題となりえるのは社会的規範である。「普通」を定義するもの。社会的事実は、社会的営みを可能にする。それを支える言語は会話を可能にし、倫理と法律の必要性はいわずもがなである。社会的規範は礼儀など、旧時代的にいえば敵意がないといった価値観を共有する為のものだった。しかし、自己統制によって受け継がれるヒトの社会性によって、個人的な価値観と社会的な価値観と混同される。ヤンキーなどは、この社会的な規範の押しつけに我慢がならないのだろう。社会的な営みを行う上で、ある程度それは受容していかなければならない。それが社会的に成熟するというものだろう。自分勝手に言語を作っても、他人との会話は成立しない。しかし、ヤンキーの怒りの根底にあるのは、社会的成熟度合いだけでなく、必要以上な規範、教師が図る行き過ぎた強要的な自己統制である。

しかし誰もがヤンキーになるわけではなく、一部の人はすんなり社会的事実を受け入れられる。それは彼らの社会的な発育において、その事実を受け入れたいと思わせるような環境があったか、なにをしなくても社会的規範に沿っていた(頭が良い、犯罪衝動がない)といったことがいえる。問題は人が社会的な生き物であるがために、反発していても社会的な規範というのが見える点にある。規範に従う方が簡単であるため、人はまず既存の規範に沿って自己統制しようとする。しかしどうしても無理になると、このジレンマに苦しめられる。パンオプティコンの弊害は、そこに看守はいないと言ってもそれが信じられない点にある。その監獄から逃れるには脱獄犯というロールモデルがいなくてはならない。ストレスの起因が自己統制のジレンマである限り、看守がいないと耳打ちが解決策だというのは、自分の心情を変えればすべてが変わるというカルトのほら吹きである。そしてヒッピーが社会に向かって価値観を変えろというのも、勝手に作った言語を他人に強要するのとなんら変わらない。監獄外に出て、新鮮な空気を吸っている脱獄犯の手法こそが、自分という看守から逃れる手である。

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