コミューンの作り方

シェアリングエコノミーに興味はあっても、今日では宗教色の強くなってしまったコミューン。1970年代アメリカで公民権運動やベトナム反戦運動などが発端となり新しい生活スタイルや価値観を目指して営まれたのが小さな自治体というコミューンという形である。しかしもちろん良識な人は、ヒッピーのように過激ではないため効果は持ち合わせなかった。

しかし、今日においてもその根底となった社会に対するありかたを見直すという欲求は満たされてはいない。大量消費社会は今なお発展し、アメリカなどは金に物を言わせた超大企業がロビイストなどを保有したせいで、政治が腐敗し、その影響は社会制度、教育、公衆衛生など様々な悪影響となっている。

激しい対立で国が終焉ムード漂うアメリカ違い、日本は同一民族からなるためまだ共同体のようなものが存在し、日ごろのうっぷんを飲み屋で晴らすことでまだ大事には至っていないような気もするが、ぬるま湯の幻想に常にいるような感覚はいなめない。

コミューンを形成する上では、やりたいことがある人とできる人が協力しあううえで成り立たせないといけない。しかし現代において同じ場所で済むというのはナンセンスだ。思想を共有することはインターネット上で可能である。そしてマリファナを吸って理想論だけを口にするヒッピーとも違い、なにか行動にしないと意味はない。その行動もデモのように訴えかけるだけではなにも効果を生み出さない。きちんとした現実世界での実際の利害関係にのっとった解決案を示さなければ、いい歳こいた女が道端で飼い犬に向かって「なんで待てないの!ダメって言ったでしょ!」などといった勘違いも甚だしい「べき論」の押し売りと何ら変わりない。

政府を変えることは難しいが、目標は政府を変えることではなく、新しい生き方を模索することにある。大きすぎる目標は達成されないため、身の回りの人さえ各々が納得する生き方を送れればいいと思う。それはただのフリーター生活をして余暇を趣味に費やすといった浅いことでない。ルサンチマンから派生するいい暮らしを否定する考えを改めつつ、社会が設定した目標のようにもとらわれず、個人的に納得できる生活をし、それ以上のお金を稼ぐ必要はないよねといった具合でいいと感じる。

そのためにはお金が必要であるが、個人がお金を作り出す程度であれば、主本主義におかされるとは言えないと思うし、対価をもらう行為の裏にはなにか付加価値、社会的価値を生み出しているということにもつながる。そのためどのようにして社会の駒とならず、自分を養っていくかの手段は大切である。例えばなにが需要があり、自分がやりたいことの中で自分がどのように付加価値をあたえていくかなどである。

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