知がもたらす可能性


無知は無責任だ

知識があれば、将来をある程度見据えることができるため、責任ある選択が可能となる。

  投票をするという行為自体は、能動的な選択であるが、その一票がどのような影響を及ぼすかを見据えたうえで投票している人は一部に限られる。日々の生活の中で我々は様々な選択をしていかなくてはいけない。その選択自体は能動的なものであるが、その選択がもたらす二次的な結果までを考慮した上で選択することは、困難である。人は選択の際の、原因と結果という因果関係において原因に能動的であっても、結果に受動的であることが多い。投票を例にすると、責任をもって投票することは原因において能動的であっても無知のままでは結果においては受動的なのだ。未来は確定的ではないとはいえ、現実的には最低限の知識を持つことである程度の能動性をもたらせればよい。

責任を持つ=納得する選択の結果
  政治的な判断、つまり投票による参画についてだが、従来は押しつけがましい責任論で投票に駆り立てようとする構造があった。投票は大事だかどうにもそのやり方はしっくりこない。近年の西欧の個人主義の影響からか、やはり個人的な動機というものを軽視してはいけないと感じる。一票の影響力という大義のために投票するというよりは、自分の投票によってまたは投票しないという行動により、自分が超個人的に納得できるのかというところにあるともう。世俗的にいうと、クソみたいな政治家に投票してクソみたいな変革に微塵でも携わったと胸くそ悪い思いをしたくないから、個人的に納得いく生き方をする上で投票し、その積み重ねが結果として社会を動かす方が本質的だと感じる(現代的個人主義社会においてはキャッチコピーとしても効果的だとも思う)。褒められたことでないにしろ、現代の大量消費社会の原動力である購買意欲を駆り立てるのは、良いものを欲しいと感じさせるよりも、持たざるもののコンプレックスによるものに似通っている。余談だかその構造を理解すると、現代において人はなぜこれほどまでにSNSに依存し、SNSを見るとうつの傾向が増えるという研究結果にも納得がいく。

知識をもって、納得のいく選択をしていく
  経済的な判断においても、なにかを買うという選択は数ある中でそのものを選んだということになる。知識のないまま買うということは、知らず知らずのうちに非人道的なサプライチェーンを持っている会社を、支援することにもつながりかねない。
  個人的な生活においても、短絡的な動機だけで選択してしまっては個人の時系列でいえば無責任だ。個人的な判断はより動機を深く知らなければならないため政治的、経済的な判断よりも、明確な方向性をつけずらいためむずかしい。動機が分かった段階では、知識によるその動機に沿った選択も可能となっていく。

では、どのようにして知識を深めていくか

身近のコミュニティーの情報共有が可能となれば、知識の共有を円滑にすることでより政治的、経済的、個人的な判断を責任をって行える。

まずは既存の方法ではなぜ知識を深めることが効果的に行えず、一部の人のみしか行えないのかという考察をし、それから浮かび上がった欠点を補う形で解決法を提示する。

知識の活用
既存のメディアの情報の質というものの批判をするつもりは毛頭ないし、そこには本を読む者としてもはや崇拝する心のようなものが存在することだけ言っておこう。しかし焦点は知識の活用のされ方にある。情報が氾濫状態にあるなかでは良質な情報を重点的に受信することが困難であるし、個人社会になりつつあるなかで昔のようにコーヒーショップなどで政治について活発な議論が行われる場もなくなってきた(政治について友達から食事中聞きたくもない)。しかし、アメリカに比べ日本においてまだ救いはあると感じている。アメリカにおいては政治がエンターテインメントとして利用され両極化が過激になりすぎ、もはや政治について、果てには意見交換にすることに疲弊しきっており、日本はまだ議論の体力が残っているからだ。国民性としても日本人は謙虚であり建設的な批判が可能となれば、よいディスカッションは可能であると考える。

だからと言って、ディスカッションだけでは事足りない。

議論の相乗効果
他者とのディスカッショでは、知識の受信側もその場にいた人にしか情報が共有されないし、そのため発信側のインパクトも限られたものとなる。よりインパクトのある方法だと、まず文字、オーディオ、動画、としていつでもアクセスが可能な状態を作り、その後ディスカッションにより理解を深め、考えを共有することでさらに知識を発展させることができる。学びには二種類ある。新しい知識を得る学びと、既存の知識の理解度の深みを出す学びだ(引用;喋り方が変でチャリで移動するインテリおばさん(勝間和代))。まず文字を読み、対話により深みを増す方法は両立させることができるのではないか。

どのように二種類の学びを実現し、持続させるのか

解決案

SNSの利用率
これについてはひとえに現代人として慣れ親しみ、効果が実証されているSNSというものを利用したいと考える。SNSにより人は他者の生活をのぞき込みたいという隠れた願望、いや失敬、知的好奇心があるということが立証されたのではないか。現段階ではSNSに建設的な目的がないため、現代人はまるで麻薬のように中毒になり、SNSに費やする時間=スクリーンタイムが無駄であるという位置づけにある。余談だが実際にSNSを見るとドーパミンが放出されるので中毒症状であるのは比喩ではない。健康的な中毒が、熱中あるいは集中に変換されるように、知識を仕入れ、深める場としてSNSが利用されるのは良いのではないか。

身近な関係により個人的興味を引き立て、持続性をもたらす
従来のSNSをそのまま使うのではなく、SNS上のコミュニティーをより小さい輪にすることが持続性をもたらす。より小さい輪であれば、関係性がすでに構築されているため信頼があり、個人的な興味が強くなる。持続的な貢献のためには個人的な興味が不可欠で、輪を狭めることで知識の発信を強固なものにし(拡散欲)、その知識を受信したい(好奇心)というサイクルが確立していく。同じ有効性から、オンラインサロンの知識の発信と受信の持続も閉鎖性により成り立っている。

具体的なプラットフォームの設計

拡散の洗練
SNSというと非生産的なイメージがあり拒否感を感じるのも否めないが、目的に知識の共有というものがあるのを念頭においてほしい。コンプレックスに由来する、短絡的かつ表面的な虚栄には興味はないし、ナルシストが優越感に浸るために教える場であっても欲しくない。同じ拡散でも、伴走者として平等かつ謙虚な立場から自分と他者ひいてはコミュニティー全体に良いものを広めていきたいという昇華された願望が根底にあるのが理想である。しかし、発信側の意図が善意的な物であっても受信側にコンプレックスがあれば理想的な関係は成立しない。そのためにも投稿やディスカッションによるエンゲージメントのなかで弱みを自覚し、自分の強みを活かした貢献をしていくことで自己効力感を強め、多少なりともコンプレックスは解消されていくのではないか。

知識の広がり
知識を持続的に得る目標の手段としてアクセスのハードルを下げつつ、文を読むということを疎外させないことが目的だ。その目的のため、日々の出来事を書いてもよいが、そこからの学びなどに焦点を置いてほしい。記録用としては既存のSNSを使えばよい。まず、特定の分野に詳しい人が大まかな導入を担う(その分野の醍醐味と考え方、レベルにあった本案内、情報収集法)。ひとしきり知識の基礎ができると議論が可能になり、議論により意見交換ができ双方良い刺激となる。素人は分からないところを解釈してもらい、玄人は知識を活かす場と更なる学びの伸びしろを自覚することもできる。

セーフスペース
セーフスペースというのは挑戦するベースとなるものである。赤ちゃんが危険に満ち溢れる外界に出ていくには、圧倒的安心感を母が家庭に築いているからだ。輪が狭いことで誰もが臆さないことは有意義なことであり、質問したり現状や悩みを飾らず出すことで社会的な目を気にすることが成長の枷となることを防ぐ。深い教養や考察がなくても、誰にでも発信するものはあり、イメージでいうと「近況報告の発展版」、大学や会社でどのような経験をしていて、それにどのような面白さがあり、そこから起点してどのようなことに興味があるのかなど内容がある共有の需要は大いにあると考える。FacebookなどのSNSにおける近況報告は、起こった事象に重点があり、考えが付随していることは少ない。それは輪が広すぎるため整理して自分の胸の内を吐露するに(時間的、関係性的に)値しないことに起因していると思うが、それは共有の輪を限定することで解決するものと考える。

閉鎖的情報コミュニティーの利点
Ⅰ.納得のいく選択ができる
Ⅱ.知的好奇心を満たす
Ⅲ.自己効力感の向上
Ⅳ.コミュニティーの強化


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