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何も考えずに文章を書き、小説になるかどうかという賭け。猿にタイプライターを打たせるよりかは幾らかましな賭けを、私は今、行っている。僕はこの文章が小説にならないと知っているし、失敗すると知っているが、それでも大した理由もなく文章を書いている。実際にタイプライターを猿に打たせた研究者曰く、猿は乱数生成機に向かないとのことだから、この研究結果を踏まえると、私が名作小説を書く確率はランダム生成よりも低いかもしれない。つまり、ランダム生成の場合は、n/30^100000ぐらいの確率(nは名作の数、タイプライターには多分キーが30個あり、小説を書くには大体10万回押せば良いだろうと言う想定)で、名作が生まれる可能性があるが、僕の場合は、すぐにネタが切れるだけだ。ワードサラダは名作になる可能性があるが、LLMが名作を生み出すことはない。この方法は、あまりにも運が良く、ボゴソートを一番速いアルゴリズムだと思っている人におすすめだ。

おそらくこの文章も文章名人によって既に書かれているのだろう。
円周率の中に君の誕生日を探した。僕が死ぬ日付もあるのだろう。
円城塔は、自らの読んだことのない作家の作風に似ていることを指摘され、そのことをネタにして小説を書いていた。確かこんな話をしていた覚えがある。
原初の言語がどんなものかを確かめる為に羊小屋で言葉を教えずに子供を育てる実験が行われた。その子供が言葉を話したら、それが原初の言語だろう、と。しかし、この実験には欠点がある。羊が言葉を教えたかもしれない。
この話で円城塔が言いたかったことが、故に私の小説は原初の小説である、だったか、私は羊に小説を教えてもらった、だったかは覚えていない。
実験室で小説を読ませずに育った人間が小説を書くことはありえないだろう。小説は普遍的なものではないからだ。神を信じられなくなった人々のものに過ぎない。
それでは、小説についての本(小説ではない)だけを与えた場合はどうだろう。一度も小説を読んだことはないが、誰よりも小説に詳しい存在は、小説を書けるだろうか。
これは新たな賭けだ。
さて、そろそろ時間だ。この文章は小説になっただろうか。小説とは何か。この問いは難しく、小説の定義は存在しないと言ってよいだろう。結局、人々が小説だと思っているものが小説なのである。
だから、この文章が小説かどうかは読者に委ねよう。コメントに小説だと思うかどうかを書いてくれたら嬉しい。多分誰も書かないだろうが。
さて、問題は多数決で決めるべきかどうかだ。物理学者ファインマンが挙げていた中国の故事の話をしよう。
中国の皇帝は不思議な力を持っており、その顔を見た人は死んでしまうのであった。だから、誰もその顔を見たことがない。見たとしてもすぐに死んでしまう。皇帝本人も死んでしまう為、生まれてこのかた鏡を見たことがなく、本人さえ知らなかったという。
そんなとき誰かが賭けをしようと言った。皇帝の鼻の高さを予想し、1番近かった人の勝ちだと。
問題はどうやって鼻の高さを知るかだ。盲いた者を送る、見てすぐに叫ばせる、風呂から溢れた水の体積から予想する、等々、様々な案が出された。それらの案を基に話し合い、長い長い議論の末、以下のような結論に至った。
人々の中から、私は皇帝の鼻の高さを当てられる自信があるという者を募る。この者達は、皇帝の鼻を見たことがないにも拘らず、自分は皇帝の鼻の高さを言い当てられると主張する。つまりは馬鹿である。この者達の予想が当たっている筈がないのだから、逆にそこから鼻の高さを推測することが出来るだろう。
この方法に対して、「そもそも知ることは出来ない」に賭けていた者から疑義が挙がったが、完膚なきまでに論破された。
その後、多くの不正はあったものの、中国中の馬鹿に話を聞き、一応の結論が出たと言う。
さて、この議論の問題点はどこにあるだろう。私が思うにこの議論には矛盾がある。それは、鼻を見たことがないにも拘らず、鼻の高さを当てられると思っている人を馬鹿だと言いながら、彼等も同じ間違いを犯しているのだ。この矛盾を解消する為には、彼等自身が少数決を採る必要があった。
いつも議論について議論している人々がいた。議論すべき議題はどのようなものか、議論の仕方をどうするべきか、議論の仕方の議論の仕方も議論するべきではないか、議論の仕方の議論の仕方の議論の仕方も議論するべきではないだろうか、そもそも議論はするべきなのだろうか。このようなことについてばかり彼等は議論しており、具体的な現実の問題について議論することはなかった。議論すべき議題はどのようなものか決まっても、そのような議題を議論することは無かったし、そもそもその基準がころころと変わった。
君は論理を否定するのに論理を使った。
2010年のイグノーベル経営学賞を受賞した研究によると、一番優秀な者と一番無能な者を交互に昇進させる方法と、ランダムに昇進させる方法が、組織の効率を最も高めるらしい。これを議論に応用すると、多数決と少数決とランダムのどれを採用しているか、投票者に知らせずに決めるのが良いのではないだろうか。あるいは小説もランダムに言葉を並べるのが良いのかもしれない。
疲れたから最後のお話。
とある牢獄に2人の囚人が閉じ込められた。2人は別々の言語の話者であり、話が通じなかった。牢獄には一冊の本があった。それは、2人が知らない、全く知らない言語の辞書だった。この2人は言語学の知見から、この言語を解読できると考えた。この辞書には品詞を表す記号が書かれている。どの言語でも、一番単語数の多い品詞は名詞で次に多いのは、動詞、3番目は形容詞である。そこから、品詞と記号が一致させられる。とりあえず、この辞書に出てくる全ての名詞、動詞、形容詞にそれぞれ印をつける。そうすると、大体の文法が推察でき、残りの品詞も推測できる。さらに様々な情報から文法を推測し、そして2人は単語の意味に関して、この言語において唯一分かっている単語、表紙に書かれた「辞書」を表す単語から解読を始める。「辞書」の項目に書かれた説明文を推測し、そこに出てくる単語の意味を特定する。さらにその単語の説明文を推測すれば、芋づる式に単語の意味を特定することができる。そうして意味を特定した多くの単語、辞書の中に出てきたそれらの単語全てに印をつける。すると、ある単語の近くによく出てくる単語というのがある。そこから意味を推測し、特定していく。例えば、空の近くに出てくる単語は青なのではないか、というように。
他にも2人は様々な方法を使って、この言語を解読した。そのひとつはオノマトペだ。オノマトペは音の響きから意味が推測できる。この辞書には発音記号が書かれていたため、2人はそこから、オノマトペのような響きの言葉を見つけ、その説明文を推測した。
2人は言葉は通じないながらもなんとか協力をして、長い時間をかけて、この言語のほぼ全てを解読した。そして、2人はその言語を使って会話をするようになったのである。2人はこの辞書に載っているほとんど全ての単語と、その解読した意味を覚えており、発音記号に基づき、完璧な発音で会話をすることができた。
しかし実際のところ、2人のした解読は全くもって間違っていた。それでも2人の間では会話が成り立っており、豊富な語彙に基づき、様々な言葉遊びもした。
彼らの牢獄の向かいの牢獄には、その辞書の言語の話者がいた。彼は発話は出来ないが、耳は聴こえた。毎日、聞こえてくる支離滅裂な文章と、それで会話が成り立っていることに怯えていた。
これで終わり。小説になったでしょうか。皆さんコメントに書いてください。少数決か多数決かは教えません。

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