思い出と紐づく聴覚
Hi-STANDARDやGOING STEADY、EASY GRIPにLONG SHOT PARTYなんてバンドの曲を聴くと、急に鼻の奥がツーンとしてくる。瞬きするたびに渋谷、三軒茶屋、スタジオヒノーズ、サウンドマーケット、碑文谷公園あたりの風景が視え、シェルターやオンエアーイースト、渋谷クワトロや新宿ロフトのステージや道中の風景がめぐり、あの甘酸っぱく苦く実らなかった恋の相手の顔が浮かぶ。
NIRVANAやBush、OASISにBob Dylan、ZEEBRAやEXILEなんかを聴くと、2メートル先の壁も見えないほどに立ち込めたタバコの煙の匂いに包まれ、明け方の百万遍や三条大橋、あるいは誰もいなくなったコタツに置いてけぼりにされた空の鍋と空き缶空き瓶が目に浮かび、トイレで吐き続ける友達の背中をさすりながら飲んだあのジャンカラのビールの味が蘇ってくる。
どうも、僕の聴覚は思い出に紐づいているらしい。
新しい音楽を聴かなくなって久しい。最後に自分で新しい音楽を探しに行ったのはいつだろう。もう20年くらい前になってしまうのかもしれない。夏生という、たまに現在イケイケの音源を紹介してくれるマシーンがいたので竹原ピストルやMOROHAに出会うことができたけど、あいつももう死んじまったので、これから先新しい音楽に出会うことはあるんだろうか。
ちなみにMOROHAを聞けば、ケルン時代の娘の小学校の夏休みのデイサービスで普段とは違う校舎に車で連れていく道すがらのKöln Südの裏のDasselstraßeの風景が浮かぶし、竹原ピストルを聞けばMPIPZの地下のクリーンベンチの中に積み上げられた140枚ほどのsquare plateの山が思い出される。
必ずしも最初に聞いた瞬間ではないのだけど、自分の心に一本の針が刺さった瞬間、あるいは安っぽい言い方をすれば稲妻が走った瞬間、その瞬間の風景というものが、その瞬間の音と共に心に焼き付いているような感じがする。
きっとみんなそういうもんなんだろうと思っていたのだけど、人によってはこれが聴覚とは限らないらしい。こないだ話してた友人は、味覚が思い出と共にあると言っていた。嗅覚が特に強く残る人もいるだろう(ぼくもセブンスターの香りはやはり当時を急激に思い起こさせる)。いずれにせよ、五感というのは思い出と妙に紐づきやすいらしい。
聴覚に紐づかない思い出もたくさんある。でもその思い出は、思い出そうとしないと思い出さない。
聴覚に紐づいた思い出は、音楽が勝手に心に呼び覚ましてくれる。
心の準備ができていないのに、急に思い出で鼻の奥を殴られる。あの、みぞおちから鼻の奥に感情が立ち上がり、鼻から目と額に視覚とともに広がっていく感覚というのは、音楽という焚き付けがあって初めて成立する感覚であり、なにものにも変え難いものがある、と思う。
新しい音楽を聴かなくなって久しい。
最後に音楽という針が心に刺さったのはいつのことだろう。
まだまだこれからたくさんの思い出を作っていきたいのに、そこに音楽が紐づいていなかったら、それはなんだかとても寂しいことではないか。
それは、なんだかとても悲しいことではないか。
夏生が死んじまったからって過去の音楽にしがみついてるだけじゃなく、もう少し心に余裕をもって新しい音楽を探索してみないといけない。何をする余裕もないほどに忙しく、疲れ果てて夜はYouTubeのショートかインスタのリールを延々とまわしながら無作為に時間を使うだけでは、心に刺さる針はきっと降ってこない。
自分の人生にとって一番大切なもの、もっと大事に大切に向き合っていきたい。
いずれにせよ、僕の人生で音楽というものを語るとき、そこには常に必ず夏生という存在が紐づいている。これから新しく開拓する音楽にも、夏生は勝手に紐づいてくるだろう。どんな音楽を聴いていても、なんかどっかから夏生が覗き込んできて、人工呼吸器をシューシューいわせながら、「ええよなそれ、亮平好きやと思ったわ」と蚊の鳴くような声で囁いてくるんだろう。そして気がついたらサッカーの話になってるんだろう。はたまた病院の愚痴でも言ってくるんだろう。ちゃうねん、俺はいまは音楽の話がしたいねん。
でも、まぁええよ、いつでも顔出してくれ。
たまたま思い立って車でOFFSPRINGのConspiracy of Oneを聴いていたら、いつもホッケーコートを眺めながらダラダラ喋っていた高校の部室の前へと心が飛んでいき、その心を札幌に引き戻すまでの過程で以上のようなことを頭が駆け回っていて、久しぶりに言語化してみたくなったという話。
聴覚よ、これからも思い出と共にあれ。
夏生よ、これからも音楽と共にあれ。
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