文章を書くということ

文章を書くのが好きだ。

それも、とりとめもないことを流れ出るままに書くのが好きだ。


小説を書くでもない。

なにか伝えたいことを書くでもない。

ただ頭の中にあるイメージを言葉に落としていく作業。



僕はだいたいいつも頭の中で何かしら考えている。研究のことでもあれば、今日の夕飯のことでもある。友人や家族のことでもあれば、自分のことでもある。電車に乗って車窓を眺めながら、バスの中吊り広告に焦点を合わせながら、電気を消した寝室の布団の中で暗闇の重心を探しながら、ただ心の赴くままに考えを走らせる。

頭の中は便利だ。たくさんのことを同時に考えられる。3人も4人も5人もいる僕が、みんな好き勝手に言いたいことを騒いでいる。そこに物的な単語や文字はない。ただただイメージがあっちからこっちへ、こっちからそっちへ、落雷のように飛び交ったり、埃のようにフワフワ浮いていたりする。それを0人目の僕が頬杖ついて、やかましいなぁと呟きながら眺めている。たまに話が紛糾してメルトダウンするけれど、それでも大丈夫。そんな時は「あ、あの店潰れてる」「この日能研の問題難しいな」「暗闇に重心なんてないわ」と意識を取り戻せば、1人の僕だけに戻ることができる。


だけど、たくさんの声をずっと聴いていると、やっぱりどこかでまとめたくなってくる。それではこの話はこういうことでよござんしたか、と、着地させたくなる。何人目かはもうわからないが、調停者の顔をした僕を登場させたくなってくる。

でもこの調停者はこの頭の中の沈黙の喧騒のなかにはいない。

この調停者は「言葉」という利器を使うのだ。



言葉はすごい。さっきまで多方向に飛び交っていた無数のイメージが、たった一つの言葉を口にするだけで一気に静かになる。さながら裁判官の木槌だ。結婚パーティのグラスを叩く音だ。修学旅行の夜の先生の足音だ。

言葉はもろい。調停者の発した言葉が間違っていると、1秒後にはイメージの反乱にあって砕け散る。そしてまた沈黙の喧騒が始まる。調停者は真に正しい言葉を見つけ出すまで、言葉を探し続けることになる。



僕にとって文章を書くというのは、そういうことだ。



中学校の頃に文集を書く機会があった。A5とかB6とかのポケットサイズに1ページだったか2ページだったか、そのくらいの短いものだった。テーマは自由だった。みんな何某か自分で決めたテーマがあって、そのテーマに関してエッセイのようなものを書いていた気がする。今から文集を棚に探しに行って「こういう文集でした」と説明してもいいのだけどそれは野暮だ。古い記憶は古いままにしておくのがいい。

はっきりとは覚えていないけれど、僕は自分の文章に「その文章を書いている自分」を登場させた気がする。

なんだか一生懸命に全てを考えて丁寧に推敲して磨き上げた文章を書くのは性に合わなくて、下書きも準備もせず、ただ原稿用紙に筆をすすめた。あぁあとこれくらいで字数がいっぱいだな、どうやって終わらせようかな、などと思いながら、それをそのまま文章にしていたような気がする。だいぶん美化された思い出だろうから実際のものを読んだら全然違うかもしれない。やっぱり古い記憶は古いままにしておくのがいい。

そのあと高校でホームページを作り始めた。HTMLを手で打って、ネットスケープで動作確認をして、geocitiesとかの無料サーバーを借りて好きなバンドのファンファイトを作った。掲示板を作って顔も知らない人と交流し、今でも親友と呼べる仲間にも出会った。

そこで「日記」を書くようになった。「ブログ」という言葉が生まれるずっと前のことだ。メモライズという当時大人気の日記サービスを使っていた。そこで、こうやって文章を書くようになった。手書きの日記を書いたことはあったけれど、どうしても自分だけのための文章は性に合わなくて続かなかった。やっぱり言葉は目的地がないと輝かない。

この中高の頃の経験が、僕の中で「文章を書く」ことの原点だと思う。



それからしばらくブログやmixiで「書く」ことを楽しんでいた。その後mixiが廃れ、長文が似合わないFacebookに移行して頻度が減った。

そしてtwitterが現れた。行き場を失い燻る調停者の前に、メディエータを乗せた黒船が現れたのだ。

ゲームチェンジャーだった。これまで外で待機していたはずの調停者が議場の中まで土足で踏み込んでくるのだ。すべてのイメージが言葉と直結してしまうのだ。ひとつひとつのイメージが、重なり合う前に言葉となって外へ飛び出していくのだ。



言葉は残酷だ。一度言葉になったイメージはほとんどの場合帰ってこない。出て行ったきりなのだ。黒船が到来して、これまで閉ざされてきた議場の扉が開放された結果、議場から僕が消えてしまった。フッと生まれた1人目の僕が、そのまま生まれたままの姿で外に飛び出していくのだ。そしてまた次の1人目の僕が生まれ、飛び出す。何人もの僕が無言で騒がしいあの沈黙の喧騒は、twitterの到来とともに消えてしまった。




最近いろいろとエッセイを書く機会があった。どれもまだ完成していない。テーマを決めて書くというのが、僕にはとても難しいのだ。それに、調停者の腕が鈍っている。議場の扉が開いたまま錆び付いて動かなくなってしまっている。手の空いた時間に携帯でtwitterばっかりみてるから、議場の中に僕が生まれることもめっきり減ってしまったし、それを眺める0人目の僕もあまりに退屈でtwitterを眺めてるから、たまに生まれる1人目の僕にも気づいていない。




文章を書くのが好きだ。

それも、とりとめもないことを流れ出るままに書くのが好きだ。

これから少しずつ扉に油を差して、0人目の僕を叩き起こして、たくさんの僕が生まれるまでじっくり観察してみたい。もう少し、沈黙の喧騒を楽しむ時間を作っていきたい。そして満を辞して、調停者にご登場いただくのだ。少しずつリハビリをしながらだけれども。

かつて黒船でやってきたメディエータも、いまや僕の心の住人だ。僕の心もインクルーシブでいたいから、無理やりご退場願うのはやめておく。共に生きる道があるはずだ。




文章を書くのが好きだ。

それも、とりとめもないことを流れ出るままに書くのが好きだ。

でも、いま書くべきは、論文だ。調停者も黒船も関係ない。いいから早く原稿をしろ。

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