海外PI便り (日本植物生理学会通信より)

以下の文章は、2020年11月1日発行、日本植物生理学会通信第140号(日本植物生理学会運営委員編集)に掲載された文章です。本来は学会員限定に配信されるものですが、今回運営委員会の皆さまのご厚意により、日本植物生理学会の発展と情報発信のため、特別な許可をいただいて転載するものです。許諾なき転載はご遠慮いただきますようお願いいたします。また、このように背景がグレーの「引用形式」で挿入したテキストは日本植物学会通信には掲載されておらず、本記事執筆の際に補足として追記したものです。本文中にも必要に応じてURLリンクを追加しました。

海外PI便り

8月某日,「海外PI便り」から執筆依頼を頂いた.これまで錚々たる先輩方のエッセイを楽しく拝読しているだけであったのに,まさか自分が書く側に回ろうとは思いもしなかった.確かに「Principal Investigator」とドヤ顔で名乗ってはいるものの,未だグループも持たず個人で研究を続ける,PIとしての実感のひとつもない若輩者である.とはいえ,ここにたどり着くまでにそれなりに努力はしてきたつもりでいるし,その一端をシェアすることで誰かの何かの欠片ほどの役に立てばと思い,筆をとることとした.未だに筆頭でも責任でもPCPに論文を出していない不肖学会員のせめてもの恩返しとなれば幸甚である.

そういうわけで,今の立場に至るまでの経緯と心の動きでも書こうと思って書き始めたが,これはどうにもこの紙面のスペースに収まるものではなさそうである.そこで本稿では敢えて苦労したこと辛かったことについて書き進めてみたい.世に溢れるインタビューやキャリアパスセミナーなどでは,輝かしい経歴や楽しいこと嬉しいことにスポットライトが浴びることが多く,「成功者バイアス」などと揶揄されて本当に届いて欲しい心に届いて欲しいメッセージが届かないことが間々ある.他愛もない苦労話(aka 愚痴)であるので,どうか気軽に読み流していただきたい(文字数節約のため近年の慣例に反して常体で書き進めることもご容赦いただければ幸いである).

中野について

東京の高校を卒業ののち京都大学に進み,そのまま修士課程,博士課程,さらにポスドク一年,都合10年間を京都で過ごした.最後の7年間はずっと西村いくこ先生(現甲南大学)のお世話になった.小胞体の形態を司る分子機構を知りたくて,細胞生物学,遺伝学,生化学に明け暮れた.博士課程一年目の終わりころ,修士の学生さんの代打としてケルンに2週間実験をしに来たことがきっかけで今のボスであるPaul Schulze-Lefertと知り合った.その後留学先を探しながら参加した国際学会で彼と再会.そこでもらった「きてもいいぞ」との鶴の一声で即決し,2013年4月に意気揚々とマックスプランク植物育種学研究所(MPIPZ)のあるドイツ連邦ケルン市へ旅立った.幸いなことに海外学振に採用され「まずは2年,もう少し頑張って精々3〜4年程度かな」という感覚で渡航したのに,気がつけば2020年9月現在でもう7年半となり,MPIPZでも最も古株の1人になってしまった.「微生物なんて大腸菌とアグロしか触ったことありません」「R?なにそれおいしいの?」というレベルだった人間が,今では数百系統の微生物を扱いながら大規模オミクスデータを嬉々として解析している.2019年1月からは肩書き上は独立した研究者として研究を進めている.2013年,2017年,2020年と3度出産イベントがあり,現在4児の父である(なぜだか計算があわない).4人ともケルンで産まれている.

お金探し

まずは一番の悩みであるお金の話,今のポジションに至るまでの苦労をご紹介したい.

諸事情により最初の3ヶ月はボスに雇ってもらい(後述),2013年7月から学振・海外特別研究員となったが,もとより2年で帰国するつもりはなかった.そのため「2015年7月からどうするか」が目下の課題であった.海外学振と異なりヨーロッパ系の多くのフェローシップ(EMBO long-term Fellowship, Marie-Curie Fellowship, Alexander von Humboldt Fellowshipなど)は受入研究機関あるいは国に6-12ヶ月以上勤務・滞在していると申請資格を失ってしまう.

このあたりは各種フェローシップによって異なるし、ルールも毎年かわっていったりするので、出そうかなと思った時に細かい情報を逐一確認することをお勧めする。実際、いまURLを調べようとリンクへ行ってみたらEMBO Long-term fellowshipはEMBO Postdoctoral Fellowshipに名前がかわり,中身もだいぶかわってるみたいだ・・・もはや情報戦争である。名前をあげたような有名どころはそれぞれのホームページに行ってeligibilityのところを確認してもらえばいいし、たとえばこういうサイトなんかもある↓
https://research.jhu.edu/rdt/funding-opportunities/postdoctoral/

海外日本人研究者ネットワーク(UJA)では日本人向けにこういった情報をまとめて発信していくプラットフォームづくりに取り組んでいて、そう遠くない将来には、UJAのホームページから適したフェローシップや奨学金を探して選んでもらえるような形になる、と、いいなぁ。

海外系フェローシップを先にとっていれば,そのあと海外学振に申請することができるのだが,その逆は成り立たない.学振が終わる頃には出せるフェローシップはもうないのである.気づいた時にはすでに時遅し,別の方策を色々と探したが最終的にボスに泣きつき「とりあえず一年間だけお前を雇う金は確保してやった,その間にどうにかしなさい」という言葉をもらった.どうにかしなさいと言われましても,とシクシク悩んでいたが,幸運にも学振が終わる前にCluster of Excellence on Plant Sciences(CEPLAS; スィープラスと読む)という研究コンソーシアム内でポスドクプロジェクトを立ち上げるチャンスをもらった.Cluster of Excellenceは日本で言うCRESTや新領域のような領域型研究予算である.急いでプロジェクトの申請書を書き上げ,採択され,そこに自らが再びポスドク候補者として応募して,審査をうけ,インタビューを切り抜け,晴れて2年強MPIPZで研究を継続する職を確保することができた.CEPLASは発生,光合成,代謝,栄養,微生物相互作用など植物科学をあらゆる側面で捉える高度な専門家集団で,ここでのポスドクは非常に楽しいものだった.セミナーやミーティングが多くて辟易した時もあったが,そういったイベントに参加することで得た人脈は本当にかけがえのないものである.しかし楽しい日々はCEPLASとともに終わりを迎える.2017年10月でCEPLASはfunding periodを終え,第二ラウンドの申請への準備期間へと移行した(結果的に採択されて現在CEPLAS IIとして発展中).それに応じて筆者の契約も一旦の終わりをむかえる.その後CEPLAS本体が第二ラウンド採択可否決定までの「bridge funding」を獲得したことで一年強の延命に成功するも,2018年いっぱいで本当のおしまい,dead endである.さすがに色々と考えた.このままだと終了時点ですでに6年近くのドイツ生活,しかもずっとMPIPZでを過ごすことになる.このままズルズルとポスドクとしてMPIPZに残るのは誰にとっても良案ではない.そうだ,別れの時である.今こそキャリアアップの時.今こそapplication writingの時.

Bridge fundingというのは特殊な条件下において、すでに走ってる大型プロジェクトが第2ラウンドへ再度応募する際に、その隙間の間もお金をもらい続けることができるシステムである。あまり経験がないので出る場合と出ない場合と、どういう基準だとかっていうことはわからない。ちなみにCEPLAS IIの申請の際のcallがここでまだ見ることができる。下の方にBridge fundingについて書いてあるので興味のある方はそちらを。

・・・とはいえ業績のない筆者には厳しい道であった.色々と応募はするもののなかなか身の振り方が決まらない.グズグズと愚痴ってはボスや同僚(特に中神弘史さんや現・華中農業大の津田賢一さん)に慰められ,「大丈夫,なんとかなる,心配し過ぎ」という言葉だけが心の支えだった.

お二人に限らず、この時期にお世話になったみなさんには本当に足を向けて寝られない。ちなみに中神さんも津田さんもメンバー募集中なので植物微生物相互作用がしたかったりコケを触りたかったりその両方だったりするひとは直接コンタクトをとってみてください。

当時を振り返れば,ポジションにこだわらなければ道はあったようには思うが,自分の中で「次に行く場所は独立ポジション」という野望が強く,それは例えば日本では筆者の履歴書では到底無理だった.こちらの文化では「ある程度のポスドクの次はジュニアグループリーダー」というイメージがあり,自分と同世代の研究者が小さいながら自分のグループを持ってガンガン結果を出していくのをずっと見ていたので,彼らへの憧れと羨ましさと悔しさとが心に重くのしかかり,背伸びしても届かない場所にひたすら手を伸ばしていたように思う.後から振り返って何が正しかったのかなどというのはフェアではないが,無謀な挑戦をし続けたあの数年に後悔はない.頑張って書類を書き上げて叩きのめされ泣きながら必死に実験して,また書いて叩かれ頑張る.そのプロセスをひたすら続けながら,歯を食いしばって遥か天上を睨み続けたことが今の糧になっていると思う(し,そう信じたい).

食いしばり過ぎて歯が歯茎にめり込みそうになっていたある日,植物マイクロバイオータに特化した別の領域型研究予算(Priority program; SPP)で「Temporary Positions for Principal Investigators (Eigene Stelle)」という特殊なファンディングスキームに申請できるという情報を得た.Eigene Stelleは,ポスドクなどの若手研究者に給料と研究費をたっぷり与えて研究に集中させ,「本当の意味でのPI」になるための成果と業績を積むための「一時的なポジション」を与えるというものである.ただし,そういうお金であるがゆえに自分自身が研究を進める必要があり,すなわち誰も雇うことができない.また,他の予算申請も強く制限される.学生を取るのにもお金が必要なドイツでは(それが日本でも当たり前になればいいなとも思うが),基本的にはすべて1人でやらなければならないことを意味している.どうやら日本でいうところの「さきがけ専任」に近いらしい.とはいえ非常に恵まれたポジションであり,通れば3年プラス3年延長可能性付き,という魅力的な機会だったので必死に申請書を書いた.そして,奇跡的にこのお金を取ることができて,2019年1月から晴れて「PI」となった(ちなみにこの奇跡にはCEPLASで培った人脈が様々な側面で大いに役立った).実はいくつか選択肢はあったのだが,色々な条件を鑑みた結果とりあえずは場所を変えることなく同じMPIPZで同じボスの下で仕事を続けている(立場上は独立だがボスのグループに間借りさせてもらっているような形).これがここに至るまでの経緯である(ほらここだけでこんなに長くなってしまった).なかなか先が決まらなくて焦った時期も長いし,今でも毎日焦ってはいるが,どうにかこうにか7年半食いつないできた.渡航直後の3ヶ月を除けば,この7年強ずっと自分の給料は自分で確保して,ボスの財布の世話にならずに済んでいる.これはボスと色々な交渉をする上で精神的にかなり楽になったのは間違いないが,その話はまた別の機会に譲りたい(あれば).

まぁ要するにボスのやりたいこと、やってほしいことと違うことをやっていても、なんとなく心苦しさがない、ということである。「雇われでもそんなこと気にしない」という人もいるし、「フェローシップがあってもやっぱりボスの意向は大事にしないと」という人もいるし、人と人との話で単純なことではないが、少なくとも僕自身はボスが「あれやれこれやれ」と提案をしてくれるなかで「いやだ」と言い張る後ろ盾にはなった。良いか悪いかは別として。

あとは、本来は学会にはそんな頻繁には参加させてもらえないルールだったので、国際学会と植物生理学会と両方参加するのは難しかったりしたのだけれど、その辺を大目に見てくれたりした。また、後々独立して手が足りなくなって、テクニシャンが必要だけど自分のお金では雇うことを許されていない、という時に、「今までボスや部門に金銭的負担を敷いてない、どころか外からお金を取ってきてる」という名目を使って研究所雇いのテクニシャンを僕につけてくれたりした。この辺の交渉はやはり、お金を取り続けた・取ろうとし続けてきたことの成果かなとは思う。

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今はこんな感じの「グループ」で研究をしています。研究所雇いのテクニシャン、学部生のバイトさん、共同研究先から実験しにきてる博士の学生さん、僕、の4人です。もうすぐボン大学から修士の学生のインターンシップも受け入れます。どんどん大きくなる、と喜びつつも、学生たちはみな年明けや春前には出ていってしまうし、テクニシャンさんも年明けからはボス付きの本務に戻ることになっているので、来年からはまた1人になる。誰か一緒に研究しませんか・・・(本記事最下部をご覧ください)


研究所での生活

お金の話ばっかりしていてもアレなので,もっと日常的な苦難も吐露してみようと思う.研究所での生活についてである.MPIPZには日本人研究者が常に複数いて,細かいことはなんでも助けてくれる.秘書さんも外国から人材を受け入れるのが日常茶飯事なので,通訳含めてなんでも手伝ってくれるし,そういったサポートを専門にするオフィスもある.世界中から人が集まっていてみんな英語ノンネイティブなので,英語の技能もまったく気にならない.マックスプランク研究所なので基盤予算が潤沢にあり,大概の消耗品は黙っていても自動的に補充される.おかげで,研究生活上で実務的に困ったことはほとんどない.問題は人間関係である.

なんせそもそも筆者は人見知りである.しかも人生で初めての海外生活である(産まれたての2年弱は除く).おまけに,かなり違う分野から飛び込んでいったので誰も筆者のことなど知らない.全員に「誰だこいつは」と思われながら,「どうせ俺は嫌われている」モードに入った心は止まることを知らず,なかなかグループに馴染めない辛い時期がかなり長く続いた.グループの一員になれたな,と感じたのはケルンに来て一年以上が経った時であった.グループミーティングで渾身のデータを大量に投下したところ,終わった後に同僚に「おまえすげーな,いつのまにこんな仕事してたんだ」と声をかけられ,やっと仲間に入れた気がした.かなり心が軽くなったのを覚えている.やっぱりまずは仕事で認めてもらうのが,一番役に立つ.

とはいえ日常生活でも仲良く馴染めたかというとそれは別であった.筆者のグループはポスドクが多く,家庭のある人も多かったので,グループで飲みにいったりワイワイしたりというよりはプロフェッショナルな関係を維持しているような感じであった(少なくともそう感じていた).研究所の他のグループともあまり遊ばなかったし,オフィスメイトともほとんど会話していなかった.など色々と言い訳はしているが,根本的には英語の問題だっただろうと思う.サイエンスの話は十分に英語でできたけど,日常会話となるとどうしてもハードルがあがって,怖くなって,頑張るのもしんどくなって,帰れば家族と話せるし,と必然的に日常会話を避けるようになっていた.変わり始めたのは2〜3年以上経って,自分の立場も徐々にあがって下の人が増えてきて,自分自身も色々と慣れ始めて,さらにグループの雰囲気も徐々に変わってソーシャルになっていって,少しずつ心が解け始めた.「グループにはいっていく」感覚から「グループをつくっていく」感覚に変わっていた,という感じであろうか.オフィスメイトの1人は陽気なイタリア人で,CEPLASで一緒になったことがきっかけで打ち解け,今では親友だし気軽になんでも話せるようになった.このイタリア人の誕生日のホームパーティで気が緩んで泥酔し,今まであまり話してなかった同僚たちに醜態を目撃されたことで彼らとも一気に仲良くなっていった.今では大体どこにいてもリラックスしているし特になにも気にせずダラダラすることができるようになった.皆もはや掛け替えのない仲間たちである.ここに至るまで時間は随分とかかったが,きっとそういうものであろう.人間と人間との間のことである,予測はできない.家族がいなかったら甘える場所がない分もっと積極的に馴染んでいったかもしれないが,家族がいたからこそ心が死なずに頑張れたのも間違いない.細かいことには目を瞑ってとにかく自分を信じて頑張ることができたのがよかったのだろう.

ドイツでの生活

最後にドイツでの生活についても触れておきたい.これに関しては愚痴を書き始めると何ページあっても止まらないのでなるべく簡潔にしておく.ドイツ生活,驚くべくもなく,苦難の連続である.

そもそも健康保険の問題があった.健康保険はパブリックとプライベートに分かれており,それぞれ一長一短ある.筆者の場合は渡航直前に妻の妊娠が判明したため,「加入時点で妊娠している場合でも出産費用をカバーできる」必要があり選択肢はパブリックの保険しかなかったのだが,パブリックの保険にはいるためにはドイツ国内で雇用契約を結んでいる必要があった.結果的に,ボスと秘書さんが色々走り回ってくれ,最初の3ヶ月間はボスの予算で雇ってくれることになった.その契約を錦の御旗にパブリックの保険に加入し,7月から海外学振に切り替えることでなんとか乗り切ることができた.ドイツの複雑な行政・福祉システムに頭を抱えた最初の出来事であった(その後も天を見上げて白目を剥いたことは数え切れない).ドイツはとにかくルールが複雑で厳しく,ドイツ人ですら理解していないことが多い.ただ,厳しいからこそ,そのルールに則ってさえいれば納得させるチャンスはある.色々と探せばなにがしら方策は見つかるものである.とにかく現地の人を利用して,助けを求めて,ルールの穴を探してもらうのが一番である.

ここで述べたのはあくまで僕のケースであることにご留意を。

秘書さんの言うことを丸呑みに信じているだけなので正確ではないかもしれないし、他にやりかたがあったのかもしれないし、今はもう違うかもしれない。いざこの通りやってみてダメで「違うじゃないか!」と僕に怒られても僕は責任をとれない。フェローシップの問題と同じく、こういったルールは時事刻々と変化していくもので、とにかく都度都度まわりのひとに聞くことが大事である。ドイツによくある話だが、窓口の担当の人が違えば言ってることも全然違う、なんてこともしょっちゅうある。ルールの解釈の問題、というの昨今の法律解釈の問題と重なって聞こえてくるが、そんなつまらない話はやめておく。

とにかく、わからないことは聞く。僕に聞かれても答えられることは少ないが、誰に聞けばいいか、どこに聞けばいいか、という助言はきっとできると思うので、もしなにか困っている・気になることがあるという方はお気軽にご連絡いただければ。

何よりの問題はドイツ語である.単純に生活する上でドイツ語が支障になることは特にないが,問題は子どもの関係での各所とのやりとりである.まず基本的に幼稚園の先生は英語が喋れない場合が多い(小学校の先生は全員喋れる).保護者も英語を喋ってくれる人は多くはない(これは地域差も大きいと思うが)し,そもそも英語を喋れるかわからない保護者に話しかけていく勇気は人見知りの筆者には皆無である.ゆえに,上の娘が幼稚園にはいった2015年以来,いまだに幼稚園とのやりとりはドイツ語オンリーである.必要に応じて書面を利用したり友人に通訳をお願いしたりする.同じ人に何度も通訳を頼まないといけないのはかなり心苦しいが,本当に皆優しくいつも助けてくれる.ちなみに役所関係も英語が通じないことが多い.そもそもドイツの役所は大変怖いところで,とにかくいつも怖い顔して睨みつけてくる.いきなり「英語喋れる?」なんて聞こうものなら「Nein!(否!)」の一言であとはなにも喋ってくれなくなる.ところが帰りに娘が可愛らしく「Tschüß!(バイバイ!)」と叫べば崩れきった笑顔でTschüß!と返してくれる.そう,怒っているわけでもなんでもなく,単にそういう人たちなのだ.「なぜその笑顔を最初に出せないのか!」と何度思ったかわからないが,もはやそういうものと思って楽しんでいる.なるべく早く笑顔を引き出すコツは,とにかく最初はドイツ語で頑張ることである.そのうち向こうが根を上げて片言の英語を喋り始めるので,あとは「私がドイツ語下手なせいでごめん」「英語めっちゃ助かるし全然上手だし,ほんとにありがとう」と畳み掛ければもう勝ったも同然ある.この辺りの技術はドイツ生活4年目くらいでやっと身につけた.

ちなみに,ドイツ語が不自由なことによる事務的な問題は特にない。研究や学問に関してしっかり大学や研究所から証明書がでていればドイツ語が喋れなくても滞在許可や就労許可は問題なくおりる。配偶者も,短期の滞在であれば(確か5年以内とかだったような気がするが定かではない)ドイツ語を求められることはないので,ポスドクや学生の配偶者としての渡独するのであれば問題ない。「短期の滞在」というのがトータルの滞在ではなく滞在許可証の更新の時の「あと何年います」という滞在の長さで決まるので,常に2年,3年というサイクルで契約を更新し続ける(いつ切られてもおかしくない)ポスドクや学生の配偶者は問題ないのだ。一方,グループリーダーなどになって長期間に及ぶ滞在許可を申請する際には「次回更新までに」というような感じでドイツ語能力「B1」をとることや,ドイツの文化などをまなぶIntegration courseを受講する必要などが生じるらしい。その辺は僕は詳しくないので,詳しい人を紹介するしかできないが,とにかくなんとかなる。

親がドイツ語に不慣れなせいで,子ども達には多大な苦労をかけている.たとえば,我が家の子どもたちは家庭では日本語しか話さないのでドイツ語に根本的な問題を抱えている.ただ,そういった子どもには,小児科医の処方箋さえあれば無料でスピーチセラピーを受けさせることができる.日本人家庭の多くがこのセラピーを受けている.このあたりやはりドイツは基本的に福祉国家で子育て支援は実に充実しているし,移民が多いのでこういったサポートも充実している(だったらせめて外国人局の人は英語喋ってくれと思わないでもないが).さらに我が家はさらに少し特殊な事情もあり,ケルン市のソーシャルワーカーさんが1人ついてくれていつでも相談にのってくれる.コロナ禍で学校が閉校になっている際にもソーシャルワーカーさんが多方面に交渉してくれて,幸いなことに上2人の子は小学校と幼稚園で日中面倒を見てもらうことができ,四人の子供を抱える我が家はそれで文字通り救われた.これがなかったら,と思うとゾッとする.子どもの苦労といえば他にも,たとえばドイツ語が不慣れな子どもたちが現地校で他の子たちにどう扱われているかというのはいつも不安である.実際,日本人の友人から好ましくないケースを耳にすることもある.こういうことを考えていると,なにが子どもにとってベストなのか,これから自分がどういうキャリアパスを選んでいくべきなのか悩みは尽きないし,この葛藤はずっと消えることはないと思う.この葛藤こそが,7年半のドイツ生活での1番の苦しみであると言えるかもしれない.とはいえ,そう簡単に答えの出るものでもないので,ひとえに,ただただ大きな怪我や病気なく健康に成長していってもらえるよう祈るのみである.そう祈りながらも,まったく話を聞かない7歳児と3歳児に怒鳴り散らしつつ,毎夜まったく寝る気のない2匹の赤子に頭を抱える日々である.

終わりに

まだまだ書いていたいのだがさすがにそろそろ止めたほうがよさそうである.海外で「活躍」していて,キラキラ輝いているように見える「成功者」たちも,その中にはいろいろな苦悩や葛藤を抱えている.その苦労や葛藤こそが留学の醍醐味であるかもしれない.一方,本稿では敢えて苦労ばかりを徒然と吐露してきたが,もちろん素晴らしいこと嬉しいこと楽しいこともたくさんある.日本植物生理学会にはその酸いも甘いも知り尽くした留学経験者がたくさんいるし,その苦労を経験している分みなさんお優しい.留学に関して不安や疑問があればいつでも助けてくれるはずだ.少しでも留学に興味のある学会員各位におかれましては,ぜひ身の回りの経験者を利用して情報を引き出し,壁を過大評価することなく積極的に飛び込んでいって頂きたい.本稿がその一助になることを祈りつつ,ここで筆を擱くこととする.

いかがだったでしょうか。長々と長文をここまで読んでいただいて大変恐縮です。通信では写真もいくつかはいっていたのですが、さすがに完全公開の記事に無許可で載せるのは憚られるので割愛しました。気が向いた時に人に迷惑のかからない範囲で写真を追加しようかと思っています。それはむしろ通信には載せられないような、ふざけてものにでもしようかと。

海外生活というのは楽しいことと辛いことが交互に、いや同時にいくつも襲いかかってくるようなもので、また親族や長い長い付き合いの友人のサポートなどが見込めないため、なかなかに精神力を試される場面も多くなってきます。逆にそれこそが楽しみでもあるし、そんな経験はなかなかできないだろうなと思います。

実際のところ日本でちゃんとしたポスドクやったことないし子育てもしたことがないので、日本と比べることはできません。日本は日本で色々と大変な話を聞くし、むしろドイツにいてよかったと思うことは多々ある(特に子育てや研究環境に関して)。日本に残るも海外に出るも一長一短ある話で、好きな方を選べばいいと思うんですが、本当は海外に出たいのに壁を過大評価して躊躇しているひとをみると、もったいない、行けばいいのに、といつも思ってしまいます。そういう人の助けになればと思い筆をとらせていただきましたし、UJAでの留学支援の活動もそういう思いで続けさせてもらっています。

僕のような人間にできることは限られていますが、もしなにか僕で力になれるようなことがあるのであればなんでもしますので、お気軽にご連絡ください。

本記事に関して質問等あれば、質問箱を使って匿名でなげていただければ、Twitterでお答えしつつ、大事なものはこの記事の続編という形で更新していこうと思っていますので、どんどんお願いします。もちろん直接Twitterでメンションしてもらったり、DMしてもらったり、電話やメールいただいても構いません。ただ質問箱ずっと前から存在してるのに誰も質問してくれなくて寂しいのでなんでもいいから誰かなんか質問してください。
https://peing.net/ja/luckystrike1984

最後に、いま僕は人を雇うことはできませんが、フェローシップのホストになることは全然可能です。そしてとても面白いのに手が回ってないプロジェクトがいくつもあります。絶対面白いことができるはずです。植物と非病原性の微生物が自然環境下でどう会話していて、それが植物の生長や免疫にどう関わっているのか。バイオインフォマティクスや植物・細菌遺伝学、生化学、イメージング、生理学、などを駆使して多面的に解き明かしていこうと思っているので、どんな背景をもった人も楽しく研究できるはずです。もし少しでも興味があるかたは、まずはぜひお話しましょう。仲間を求めています。もし人が雇える状況に変わったら、それもまたTwitterホームページでおしらせしますので、よろしくお願いいたします。

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2021年5月17日 追記
諸々の事情により、現在フェローシップの受け入れはできない、ということが発覚しました。最初に聞いてたんと話が違う!という憤りはさておき、そういうことのようです。ただし学生さんの短期留学、たとえば日本学術振興会の若手研究者海外挑戦プログラムなんかを利用した海外挑戦は引き続き全力で支援・サポートしますので随時メールでもツイッターでもご連絡ください。

本当は昨年4月から学生さんが一人このプログラムを利用して半年間滞在する予定だったのですがコロナ禍で延期に次ぐ延期・・・特例により年度を超えた延長が可能になったのでなんとか今年度中に実現させたいねと話をしているところです。

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