時間は不可算である

時間は数えられる。

あと5分で出る、あと2時間で着く、締め切りまであと3日、いやもう2週間すぎてる、あれ締め切りってなんだっけ。


時間は帰属する。

私が札幌駅に向かうバスの15分は、私にとってはTwitterの時間、息子娘にとっては小学校の支度をする時間、運転手さんにとっては勤務時間。それぞれがそれぞれに時間を持ち、それぞれの時間軸で生きている。


そう、時間はユニットである。この5分、あの5分。私の5分、あの子の5分。色々な次元で切り刻まれ、色々な形で個々に配分されるユニットである。そう思える。




だけど、時間は不可算である。


時間は切り分けられない。あの5分とこの5分は繋がっている。私の5分とあの子の5分は繋がっている。連続しているとかそういう話じゃない。「繋がっている」のだ。

私が布団で普段より長めに過ごす10分は、子どもから準備の時間を10分奪うことになる。私が好きな料理をして楽しむ週末の1時間は、その他の家事をこなす妻の仕事を増やして彼女の時間を奪うことになる。私がのんびりシャワーを浴びる朝の時間は、その間居間で行われる大戦争の火種となり全員の時間を強奪する。

私は私の時間を生きている。私がどういう配分で使うも私の勝手だ。彼らは彼らの時間で生きればいい。

でも、時間は全てつながっている。私の時間の使い方は、あの人の時間の使い方を変えてしまう。私が時間を無駄に使うことは、誰かの時間を強奪して浪費することになる。



時間は不可算だ。私の5分もあの子の5分も、たったひとつの「時間」の一部でしかない。



時間は貴重だ。自分のくだらないこだわりや感情で他人の時間を喰い潰していないか、常に考えながら生きないといけない。





こんなことを書くことに使うこのバスの中の15分は、こんなものを読まされるあなたの貴重な時間を強奪することに成功した。皆さん良い一日を。


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