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ヤイコ

屋外ステージを見下ろす大階段に座りながら、矢井田瞳(ヤイコ)を最初に聴いたのはいつだったけなと考えていた。いちばん好きだったのは中学生の頃で、小遣いをはたいたり誕生日プレゼントにリクエストしたりしてアルバムを入手して聴いていた。けれど数年が経って全く聴かなくなってしまったので、最近の曲は全く知らない。この日はたまたま近くでヤイコがフリーライブをやるという噂を聞いたので観覧席に来てみたのだけれど、どこか落ち着かない。

「ヤイコを好きになったきっかけ」を思い出せないうちに本人が登場した。現れたヤイコは思ったより小さかった。よく「芸能人は大きく見える」と言われるけれど、本当にそうだ。前に街で偶然見かけたハイヒールリンゴがめちゃめちゃ小柄で驚いたことを思い出した。イベントはトーク中心で、ライブは1曲しかやらなかった。少なくとも2〜3曲はやるかな…という予想は外れた。この日は夜に有料のライブ出演が控えていたようなので、まあよく考えたら当たり前といえば当たり前だ。

ライブでは何の曲をやるんだろう、新曲だと分からないし昔の曲だといいな、でも昔の曲とかやられたら泣いてしまうかもしれない…と思っていたら昔の曲をやってくれた。けれど泣きはしなかった。曲が始まったらうわ〜ヤイコの生声だ、力あるなあ歌声伸びるなあと思って感動したのだけど、気がついたら昔の自分のCD視聴体験を後追いしている感じになってしまった。今目の前で行われているパフォーマンスを味わうというよりも、脳内で再生される曲の答え合わせをしているような感じ。無意識下で「この曲のこの瞬間で鳥肌が立つはずだ」みたいな感覚がよぎっている。けれど期待した反応が「そのまま」起こることはない。

この感覚はどこかで味わった気がするぞと思って考えてみると、同じく中学時代に好きだったKICK THE CAN CREWの復活ライブを最近観たときだと気付いた。ライブを見ながら、「あの時」の感動や感覚を「そのまま」味わおうとしてしまう。多感な時期に繰り返し聴きすぎてソラで歌えてしまうような楽曲は、たとえ生のパフォーマンスを観ても脳内のイメージを越えられないのかもしれない。以前、「自分の中で神格化しすぎたバンドのライブに行ったら、CDの方がいいと思ってしまった」みたいな話を誰かのブログで読んだけれど、それに近いものがあると思う。

ライブが終わってイヤホンをして、spotifyでヤイコを検索する。MCで触れていた最新のミニアルバムを再生する。新曲に続いて、昔ずっと聴いていた曲の再録版が流れる。やっぱりここでも「あの時」を追おうとしていて、好きだった曲のはずが「なんか違うな」となってしまった。「あの時」の感覚を引き起こしているものはたぶん本当に微妙な要素で、ある箇所の節回しとか、ある箇所のビブラートやちょっとした間だったりするのだと思う。再録版はアレンジや歌い方が微妙に変化しているので、当然「あの時」の感覚を「そのまま」再現することにはならない。

けれどそういうものだ、と思えばまた聴けるような気もしてきた。今は音楽の趣味もずいぶん変わってしまったし、ワンマンライブに行くほどではないけど、またフェスとかでチャンスがあったら聴きたい。その時は「答え合わせ」せずに楽しめたらいいなと思う。


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