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盆 台風 鬱病 (そして吐瀉物のような文章)

 脳みそが石のようになり始めてからもう1ヶ月以上経った。
今がここ1,2年で一番酷い。子供のときはピーピー泣いていたが、今となっては目玉の泉も枯れ、飯を食う死体となっているだけ。ずっと物理的に胸が痛い。本当に何にもならないのに、気を紛らわせるためにパソコンに向かうだけ。

 こんなことは一生ひた隠しにするつもりだったが流石に無理があるしもう周囲にはバレているのだ。私は幼い、一般的な認知に問題がある、あたりまえができない発達障害者である。且つそれによる「二次障害」として重い躁鬱病を10年以上抱えてしまったまま現在息をしている醜い生き物である。

 ここ最近で一番ショックだったのは、実家に帰ってきて療養できたよう思っていた病気がほとんど改善できていなかったことである。「調子がいい」「最近は毎日が楽しい」と思って去年ぐらいから生きていたが、なんだ、ただの躁状態だったのか… と思うと本当に目の前が真っ暗になる。お先真っ暗。喜怒哀楽を自分でコントロールできない人生に希望があるのか?

 昼2件、夜3件の仕事なりバイトなりを体調、精神面が絶好調だった躁状態のときに全て受け入れてしまった。「俺ならできるかも」という全能感、「頑張ればできるな」という極端な楽観視。そこまでしておいてこの躁というものはその責任を取らないままいつの間にか、どこか遠い空の向こうへ風のように突然消えていく。一時のニュートラルな時になんだか現状へ不安を感じ出し、しんどいと思い始めた頃には心と知能の不感症が始まっている。躁であっても鬱であっても、こんなタスク量は私の少ない脳みその処理能力を遥かに超えていたのだ。

 躁の時は怒りっぽくなって人を怒らせる。鬱の時は連絡が取れなくなって人を失望させる。本当に、申し訳ない。好きでこんなことをやっている訳ではないのだ。

 鬱も厄介だが、一番厄介なのは躁の方だ。本で読んだが重度の場合、「コンゴに金を掘りに行こう」と言われいいですね!と実際に飛んでいってしまう状態なのだ。誘われた仕事全てができると思って自滅した私。このまま放っておくと将来意味の分からない投機話を血走った目で人に勧めたり、貧困に喘ぎながら世界を股にかけるトレジャーハンターになってしまいそう。(絶対にそうならないよう努力するが)そうなった時はあなたに私を殺して… というよりは病院に連れて行って頂きたい。

 この受難が神から与えられた試練なのだ、と言われたらキルケゴールよろしく本当に私は神を恨むつもりでいる。しかし今、私は救いを医学と行動経済学の本、そして神に求めている…。衝動的に「ふしぎなキリスト教」なる新書を買ってしまった…。遠藤周作が好きなので、「弱者としてのキリスト」「全てを赦すキリスト」みたいなキャラクター像が好きなのだ。決して十字軍の頃から変わらないキリスト教徒連中が好きな訳では無い。

 昔の人が宗教に全ての救いを求めた理由が本当に心情的によく分かる。私も人知を超えた何か超常的なものにしか今救いを見出せないからだ。人間なんて数千年経っても結局こんなものさ。

 ここ最近は止めていたのに「死にたい」という麻薬にまたどっぷり浸かってしまっている。先日友達が徳島で一番躍動的で幸福な祭りである阿波踊りに私を連れてってくれた。土砂降りの中向こうから轟音とともに隊列が来る。水浸しになりながら屈託のない笑顔で跳ね回り、私の目の前を通り過ぎていく。この人たちは本当に、生きているんだな、と思った。俺はゾンビ。声をかけてもらったのが嬉しかった分、引きつった顔で後ろをついていくだけの自分が誘ってくれた彼女らに申し訳なかった。

 「ごめん、今日はありがとう、サヨナラ!」と言っていきなり新町川にダイブして死ぬ そんなイメージが一瞬脳をよぎったが、バカバカし過ぎるしあまりにも友人二人の夏の思い出を汚しまくりなので考えるのをやめた。自殺って人にいらないダメージを与えてしまうから駄目なのだ。

 成功者が成功のイメージを常に思い描いているからそれを引き寄せるのと同じように、今こちらには墓がどんどん近寄って来ているような気がする。


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