桜木町駅の車止め その2 東急東横線

 桜木町駅にはもう一つ、車止めがあった。今はなき東急東横線桜木町駅の車止めである。

 目蒲線とその沿線である洗足田園都市や田園調布の開発で規模を拡大してきた東横電鉄(現東急)の社長・後藤慶太は1926年(大正15年)2月、丸子多摩川(現・多摩川)~神奈川(廃駅・現京急神奈川駅付近)間を開通させ、その触手を横浜に伸ばした。

 東横は当初、桜木町ではなく黄金町を目指していた。そこは当時の一大繁華街・伊勢佐木町の西側の入り口であり、また三浦方面へ走る湘南電鉄(現京急本線の黄金町~浦賀を起業)の始点でもある。ここまで到達すれば、三浦半島も手に入る。
 しかし1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で状況は混沌とし、東横は神奈川で留まり、様子をうかがう。

 一方の湘南電鉄は桜木町経由で横浜駅を目指していた。黄金町から桜木町への大岡川沿いの線路用地(この跡地は現在の地図でも確認できる)は、震災で鉄道省が断念した京浜線(現・京浜東北線)伸延計画のためにすでに取得済みであり、湘南電鉄はこの用地をあてにしていたのだ。
 五島は湘南電鉄と連絡するために黄金町案とは別に、桜木町経由で鎌倉方面へ伸延させる計画を申請し、二股をかける。

 昭和2年、鉄道省は東横電鉄・湘南電鉄より申請されていた路線免許に採決が下る。
 東横電鉄
   青木町(旧神奈川駅)~黄金町  申請却下
   高島町(旧横浜駅)~桜木町間  敷設免許
   桜木町~鎌倉間  申請却下
 湘南電鉄
   桜木町~日の出町~南太田間  敷設免許
   高島町(横浜駅再建予定地)~桜木町間  申請却下

 東横電鉄、湘南電鉄ともに桜木町までの免許を得、五島の野望は大きく前進したかに見えた。

 しかし、この時点で湘南電鉄はまだ開業しておらず、しかも建設途中の施設が震災で被害を受け、倒産寸前の状態であったのだ。これを救ったのが京急電鉄だが、「日の出町で京急と連絡する」がその条件であった。
 東横の桜木町からの伸延計画は土壇場で挫折し、桜木町駅に車止めが置かれることになった。

 昭和12年、東急は桜木町~日の出町の免許を申請し、日の出町で湘南電鉄との連絡を再度企てる。その後日本が戦争の時代に入ると、戦時統制政策の一つとして、湘南電鉄を吸収した京急電鉄も東急傘下に集約され、五島の支配下となる。 今度こそ!
 だが、本土空襲も始まり戦時の混乱が激しくなった昭和19年、伸延どころではなくなった東急は桜木町~日の出町の申請書を返付せざるをえなくなる。
 戦争が終わり鉄道は占領軍の管理下に置かれ、大東急は解体された。五島の野望は潰え、桜木町の車止めは存続することになった。

 国鉄の車止めとは異なり、東急桜木町の車止めは最初に出来た時から、「その先」を目指した仮のものであったのだ。しかし、計画しては潰され、準備しては挫折した。そうして東急桜木町駅の車止めは生き永らえてしまった。

 その終焉は思いもかけぬ形で訪れる。
 東急は横浜駅で横浜高速鉄道みなとみらい線と相互直通運転を開始し、元町・中華街駅まで線路を伸ばして、ついに「その先」を手に入れる。しかしその代償として東横線桜木町駅と高島町駅は廃止、桜木町の車止めは駅ごと消されてしまったのだ。

 東横桜木町駅が開業してから72年後、五島慶太の死後45年後の2004年(平成16年)2月1日のことである。

 終わりは始まりでもあり、始まりは終わりでもある。


余談
2013年(平成25年)東横線渋谷駅が地下化され副都心線と直通運転を開始すると渋谷駅の車止めも廃止され、東横線は始点にも終点にも車止めを持たない路線となった。

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