24M十五 テオティワカン!まやまやぽん!

「まやまやぽん!」体操が炎上してると知って驚いた。今はこんなものまで燃えるのか。

どうやら歌詞が不適切だと言われているみたい。「心臓を捧げる」とか「生贄が」とかが。

まあそんなものは後付けの理由なのだろう。

「NHKが自分達の税金をこんなものに使って金稼ぎをしている!許せない!」
が一部の人間の本音だろう。

別に良いじゃん。曲自体はポップだし、振り付けは可愛いし、歌詞はキャッチーだしで良い曲だと思う。僕は大好きだけどな。

「テオティワカン!まやまやぽん!」の所がリズムに上手くハマってて気持ち良い。もう何度も聴いてる。



でも不快に思う人が出てくるのは仕方の無い事でもあるよなぁ。
現代では嫌なら見るなは通じなくなってしまった。
SNSの普及で誰もが手軽にコンテンツを発信し、手軽に受容出来てしまうから見たく無いものも嫌でも目に入る。

でもそれに一々突っかかるのは何故なんだ。ほっといて欲しい。こんな事でコンテンツの自由度が下がってしまうのは悲しいからやめてくれ。


まあ正直な所物申したくなる気持ちは分かる。
現に僕も日記にして、インターネットにお気持ちを放流しているし。
でも言い訳させて欲しい。
自分を棚に上げる様でなんだけれど、noteはなんか言ってるなって思って開かなければ読めないし、そもそも僕の日記なんか多くは読まれないと思っているから書けるのだ。
僕ならXのリポスト欄には絶対に書かない。


何をしても何をやっても理由を付けて炎上、批判が起きる嫌な世界だ。コンテンツの提供者は大変だろうな。だからこそ、応援の意を込めて言葉にする意味も少しは有ると信じたい。






「アルジャーノンに花束を」を無事に読み終える事が出来た。正確には読み終えたのは月曜日なのだけれど、読後よりもこれを書いている時の方がより感傷的な気持ちになっている。

主人公であるチャーリーの経過報告書を読んでいるという設定は没入感があってとても効果的ではあるのだけれど、読むのが大変でもある。

序盤の幼児が書いた様な、句読点の無いひらがなだらけの文章がとにかくしんどかった。
でも終盤、知能が退行してしまった後の文章は完全に没入していたからか、意外とスルスル読めたな。

読んでいる最中は実在する赤の他人の備忘録を読んでいる様な、はたまた自分に似た誰かの体験談を読んでいる様な、奇妙な感覚があって、読み終えた後に著者が「チャーリー・ゴードンは私です」と言った意味が少しだけでも理解出来たかもと思えた事が嬉しかった。


知る事が幸福に繋がるわけじゃないというのは日々実感させられる。
子供の時の様な純心で物事を楽しめないのは世の中には悲しく、辛い事もあると知ってしまったからだし。
過去の行いを悔いるのも、時間が経つ事でそれが現在にどう影響したのかを知っているからだしな。

オカルトも魔法もフィクションの中にしか実在しない。現実は嫌になるほど窮屈だし、金ばかりだし、夢は夢だと知ってしまった。
でもそれを知らないでいた子供の時の僕の方が今より全然幸せだったと思う。


名作と言われている理由が良く分かる。読んで良かった。



「地雷グリコ」も読んだ。面白過ぎてすらすら読めたな。

著者の青崎先生は「嘘喰い」に影響を受けたとインタビュー記事で語っていたけれど、爽やかな読み口はどちらかと言うと「幽遊白書」の「禁句」や「めだかボックス」の「消去しりとり」が近い気がする。

まあでも「嘘喰い」が好きなら本作も絶対好きなはずだからおすすめだ。

続編の構想も少しあるらしいし、期待しても良いのかな。ぜひ読みたい。

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