自分で家系図を作る!① 〜私の生い立ち編〜
私、SIONこと本名マツモトは、マツモト家最後のマツモトである。
一人っ子で女性であるから、結婚しようとしなかろうと、ラストマツモトになることが確定している。
(妻の氏を名乗ってくれる夫を見つければマツモトは続いていくかもしれませんが、現状、そこまでしてマツモトを続ける理由も特にない)
今日は、自分で家系図を作ろうと思った経緯について書いていこうと思います。
実際に全国の役所に問い合わせて家系図を作り始めるのは第3回くらいからになると思います。
その前に力尽きる可能性が非常にありますが、最後まで読みたい方は是非応援してください。
もともと特に自分の家のことに興味が無かったし、両親があまり家のことを語りたがらなかったことから、マツモト家の全貌が見え始めたのはだいぶ大人になってからである。
マツモトは、北海道旭川市と言う、北海道2番目の人口を誇るが札幌市にはまったく及ばない、ごく普通の地方都市にて、
それなりに良い家系に生まれたマツパパと、言い方は良くないけれどド貧乏、かなり苦労したマツママの間に生まれた。
マツパパは北海道名寄市の出身で、元を辿ると北陸地方から来た武士。おそらく明治時代になった際に刀を捨てて農家さんになり、結構な土地を構えて地主や農耕などをやっていたみたいだ。
マツママは北海道沼田町の出身で、貧しい炭鉱街に生まれた。歴史の教科書やニュースにもあるように昭和初期〜中期は石炭の全盛期で北海道には炭鉱街がたくさん作られて行ったが、昭和の終わり頃から石炭はその役目を終え、北海道内の炭鉱はどんどん閉鎖されていった。
今、マツママのふるさとはダムの底に沈んでいる。ここらへんは北海道でも有数の有名廃墟・かつヒグマ出没地帯で廃墟マニアとは言え簡単に行けない場所なので、伝説の廃墟となっている。
(R&Rを知ってくれたこの辺に在住している方と接点を持ち、ヒグマ撃退のため火薬を打ち上げながら陥落した橋や濁流を渡り、このダムの底とかまで行ってRose&Rosary 5thアルバム「VALHALLA」のブックレットを撮影してたりしますが、話が長くなるので割愛します)
今でこそあまりそういう偏見もない時代だけど、昭和の頃は「炭鉱街の出身」と言うとやっぱり「貧乏・底辺」と言うイメージがあるらしく、マツママは自分のことを語りたがらなかった。「自分は苦労したし馬鹿にされたから、娘には生まれで差別されて欲しくない」とのことだった。
そもそも北海道と言うのは本州の人たちから見ると「ワケアリの人が集まった土地」で、マツパパの先祖だって、物凄いお侍さんなのであれば北海道まで流れて来ずに北陸に居たと思うので、「どっかの分家」「戦に負けた方の武士」なんだと思う。
さて、子供の頃はまったくマツモト家について知らなかった私が、なんとなくのマツモト家の全貌を知ることになった。東京の大学に通うために一人暮らしを始める、マツモト高校3年生の3月である。
4月から東京に住むために住民票を旭川市から移動する必要があるが、その手続きは東京に単身で向かった私がこのあとやるわけで、「アンタ、東京に行ったらいろいろ自分で手続きすると思うけど…、ちょっとその前に話がある」と深刻そうなマツママに呼び出された。
そこで打ち明けられた話の数々は衝撃的なものであった。マツママは10歳も年をサバ読んでいた!!!!
超高齢出産で、28歳の時にマツモトを産んだと聞いていたが、38歳の時の子だった。マツパパよりかなり年上なのが恥ずかしくて隠していた。
おかしいと思ってました。正直、なんでウチのオカンだけ白髪あるんやろと思ってました。友達の家に遊びに行っても親がミスチルとかを聞いてるのがリビングから流れてくるのに、
なんでウチのオカンは吉幾三をリビングでかけるんだろうと思っていました。
しかも、
マツママとマツパパは、離婚して結婚して離婚して結婚していた!!!!!!
「犬を飼いたい」と言ったら、マツパパジジ、マツパパババに反対されたとか言う理由で。
「他所の家のことに口出しして欲しくないよね。犬飼うくらい良いじゃないか。子供も生まれる前に、犬を飼うなんてダメですよ。犬を飼うなら、子供が生まれてからにしなさいってじーちゃん・ばーちゃんが言うのよ。マツパパジジ、マツパパババは本当に私に冷たかった」などとマツママは申していたが、このあと家系図を製作するため戸籍謄本をいろいろ取り寄せて分かったことがあった。
マツパパはそこそこお金持ちなので(先祖代々そうなのもあるが、本人も敏腕サラリーマンで、西新宿でいちばんデカいビルが本社の某有名企業にお勤めであった)
結婚当初から定期的に、貧乏暮しであったマツママの兄弟が我が家に居候していた痕跡がかなりあり
結婚してラブラブな新生活が始まるかと思いきや、マツママ兄弟が次から次へと居候し、だいぶマツパパは苦労しただろうなと書面上だけでも伝わって来るし
家に謎親戚が住んでいると言うことは、なかなか子供など生まれない環境であったことも想像が付き
今より昔の時代なので「普通であることが良しとされる時代」、「結婚して10年以上子供も出来てないんだから、犬を飼うのは子供を産んでからにしてはどうですか(直訳:つーか、なんで子供も生まれてないのに兄弟たちを何人も居候させてんねん!!怒)」と苦言してくるマツパパジジ、マツパパババに悪い部分が一切ない。
「自分は炭鉱出身で苦労したし馬鹿にされたから、娘には生まれで差別されて欲しくない、ゆえに、自分のことを語りたくない…」とマツママは申していたが、ほぼ9割は実年齢を言いたく無かったのであろうことも察する。
さて、無事に隠し事も明らかになったマツモト家、マツモトは東京に引っ越していき、住民票を移すことになった。
そこで初めて自分の住民票や戸籍謄本を見て気づく。
マツママ、パパおらんの…?
つまりマツモト、マツママジジおらんの…?マツモトは、マツママジジにだけ会った事がない。早くに亡くなったそうだからだ。
このブログを書いている時点では、色々な先祖の資料を集めて「昔はこういうことがよくあった」と分かってはいるけれど、お役所のこういう書類で空欄と言うのは18歳のマツモトは驚くわけで、「なんで居ないんや?ワシのじーちゃんは何者なん!?」とマツママに問うた。
マツママは重い口を開いた…
マツママジジは、第二次世界大戦中の混乱期、中国大陸からビジネスチャンスを感じ、勝手に日本国に入ってきてしまった中国人であった!!!!!ニイハオ、ハイラーハイラー!!!北海道の歴史資料館などには、必ず「戦争当時に中国大陸から強制的に連行されて、労働力として酷使された中国人たちの苦労」を書いた資料がある。
祖国から遠い地で命を失い、日本で埋葬された「中国人墓地」もたくさんある。
涙ながらには語れない、戦時中の北海道の歴史…
そのかたわら、自分の意思で勝手に入ってきて、貧しい炭鉱街にビジネスチャンスを感じ、街の機能が無い炭鉱に日用品の商店を作りボロ儲け、街で唯一の車を購入し乗り回し、相撲などのエンタテイメントを炭鉱街に利益度外視で誘致!!毎晩のように近所の人たちを家に集めてはタダ酒を振る舞う、異国から来た超パワフル男、マツママジジ!!!!ハイラーハイラー!!!
マツママジジは、自分で稼いだ財産をまったく貯金せず自分で豪遊し、42歳くらいでソッコー死んだ、再見!!!!
なお、マツママ一家がド貧乏になったのは、この後のことだそうである。
タダ酒を飲んでマツママジジに世話になっていた近所の人々も、車や家を売り払い、没落していくのを鼻で笑って見ていた。とても苦労したようなことを言っていた。
私の家は本当に厳しく、とにかく普通にしていろ、人と違う事をやるなの家。「やるな、やるな」の中、私の自己肯定感はゼロのまま育ったので、こうやって音楽活動をしたり、「ちょっと人とは違う、目立ってしまうこと」をやれるようになったのは両親の目が完全に無くなってから。
X JAPANのhideが亡くなった時も、子供の私をとっ捕まえて「アンタX JAPAN好きやん?でもな、ほらな?派手なことやると、早く死んでしまうねん…だからアンタは派手な服を着たりしないでね。人と違う変わったことしないで、とにかく目立たないで」と再三言われたので、よほどマツママジジが何か派手な人だったトラウマなんだろうなと思っている。
遺伝子は隔世遺伝するので、自分に似てるのは父母よりじーちゃん・ばーちゃんであるとよく言われるが、
「入って良いのか良く分からんが、入れるし、入っちゃお」の発想は、確実に私は受け継いでいる。
ハイラーハイラー!!!!
てゆーか、「普通にしていろ!目立つな!」と言う教育方針であったマツママですら、犬どうこうで結婚して離婚して結婚して離婚するのようなパンチの効いた事をやっているので、今考えると親の教育は話半分に聞いて、子供の頃から自分に自信を持って好きな事を臆せずやって生きていけば良かったと思っているよ。後悔先に立たず。
長くなったが、先祖代々の武士家系に生まれた由緒正しき血族マツパパと、謎チャイナフロンティア金なし血族・マツママの結婚は、なかなか相容れない物があったようで
私自身、幼少の頃にそれなりにじーちゃん・ばーちゃんの家に遊びに行ったり、そこそこの交流はあったものの、正月やお盆の夜、ふと目を覚ますと
マツモト家の遺産はどうなるんだろう?土地は?
と言う話がされていた。
マツママの一家は、所詮、他人だから。何もくれないよ、きっと。
でも、マツモトは、マツモト家と血が繋がっているじゃん。
だから、マツモトは、もらえるはずだよ。
遺産なんて言葉が分からない子供ながら、すごく嫌な話をしていることだけは分かった。
マツモトが成長すればするほど、マツパパの血族も高齢で亡くなっていき、そういう話が聞こえてくる機会が多くなった。
「ちょっと、おじいちゃんやおばあちゃんに、いまはまだ元気だけどさ、死んじゃったら残ったものってどうなる予定なのか、聞いてきてくれない?」
「もし遺言とかが出てきて、マツモトに全部行ってたりしたら、お母さんたちにくれる?」
年々、マツパパ親族とマツママ親族は不仲になり、交流も無くなって行った。
じーちゃん・ばーちゃんの家は我が家から近く中学の通学路上だったので、学校帰りにジュースをもらおうと立ち寄れば
勝手に会うな!じーちゃん・ばーちゃんに1人だけ好かれようとするな!と責められ、
「そうじゃないよ。遺産は何も要らないよ」と言っても、お酒が入った時などは親族もかなりの剣幕で、「口頭で要らないよと言っても、どうしようもないのよ。書面に残してくれる?」とさらに面倒臭い話に発展したり、ブログに書けないような、辛いことや悲しいことが色々あって、マツモト家に居たくなかった私は18歳で故郷を出た。
ブログに書けないことたちは、私が何故いまこういう活動をしているのかと繋がってくる話なので、いつかもし機会があったら、私がこういう活動をやめる日が来た時、側に居て応援してくれた方々にこっそり聞いて欲しいと思っている。
書ける範囲の話でまとめるが、数年前に、マツパパババが亡くなった。
亡くなったのは、老人ホームに入って数ヶ月後のことだった。
「マツパパババが自分の家を売り払い、老人ホームに行ったみたい」と言う話だけは聞かされたが、どこの老人ホームに行ったのか教えてすらもらえなかった私は、旭川じゅうの老人ホームに「こういう名前の人が来ましたか」と片っ端から電話をかけ、亡くなる数ヶ月前にマツパパババと会った。マツパパババは、長い間、土地や遺産で親族が揉めていることに一切何も言わなかったが、ちゃんと知っていた。
「マツちゃん、お話があるんだけどね」と言うので、「その話は聞きたくない」と言ったのだけど、「重要な事だから」とマツパパババは言った。
最低限の自分の葬儀代と今後の老人ホーム代だけを手元に残し、
あった土地をすべて売り払い、自分の住んでた家も売り払ってそれを上乗せした額を、血の繋がり関わらず、自分の知っている親戚すべてに、キッカリ平等な額を、現金で配布したからね。
私は必要ないものだと思うから、私の代で、ぜんぶ処理したよ。
あのね、みんなが思っているような額は、元々無いんだよ。北海道の田舎の土地なんて、タダのような物なの。とても少ないけど、マツちゃんの分もあるから、結婚するときや、万が一病気になったときには、多少は使えると思うから。ばーちゃんが死んでも、もし誰からもお金のお話が無かったら、お母さんに聞いてみてね。
そうそう、ジュースあるよ。
ばーちゃん、足が悪くて、もう車椅子じゃないと移動できないのね。買い物にもなかなか行けなくて、せっかく東京から来てくれて、ジュース1本しかあげられなくてごめんね。
ばーちゃんから渡された缶ジュースは、ほんの少し、賞味期限が切れていた。
「きっとアイツらだけ良い暮らしをしているに違いない!」ボロクソ言われていたマツパパババ、いつも節制した暮らしをしていたのを、昔から私は知っている。
賞味期限切れのジュースを渡されて数ヶ月後、マツパパババは亡くなった。
マツパパババがみんなに平等に遺産を配り、親戚たちを険悪にした遺産のお話も、これでおしまい。
ちょっとお金持ちのマツモト家も、これでおしまい。
両親や親戚同士が非常に揉めてしまい、お墓や仏壇がどこにあるのかもサッパリよく分からないまま、マツモト家はラストエンペラー・マツモトの時代でおしまい。
…では終わらないのであった!!!!!!
私が故郷を出て来たのは、実は、北海道時代に数々の心霊現象に見舞われていたからでもあるのだ!!!!次回、
②やっぱり、ある程度、親戚づきあいとかして、お墓とか仏壇とかちゃんとしてないとマズイんじゃないの!?!?先祖供養やらんと絶対やべえよ!!!!編 につづく
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