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年の初めの挨拶、

…の話です。
いつからかこんなにも、年賀状という文化が「懐かしい」けれど「面倒」で、やらないことが当たり前になってしまったのか、と、ふと今年思った。
ペンをもって、字を書く、あるいは文章をしたためるという行為が好きだった自分としては、さみしい。(自分のことはいったん棚に上げて、)

年賀状と、SNSのコミュニケーション
年賀状をきちんと出さなくなって数年になると思う(きっと大学受験ぐらいからがその境目だった)。当初はSNSなり、LINEなりでの連絡や近況報告がその「代わり」だった。でも、最近になって、年賀状とSNSでの挨拶は、その役割は、違うなと感じるようにもなってきた。
それは、長さや「文章を書く」という行為をどれだけ重視するか。元々手紙や寄せ書きに長々と細々と書いてしまう性分だという性質も手伝っているのかもしれないが、SNSやLINEでは、一人ひとりへの長文のメッセージは、なんだか求められていないように見えてくるし、そもそも長文を書くことではなくスタンプや画像なり短い文章なりが求められる。
だからこそのnoteやブログや、といった類のものが、あるいは長文で投稿するご挨拶postが流れていくFacebookなんかがいろいろ出てくる。でもそれもなんだか違うような気はするのは私だけかな。

手紙のような私的なやりとりが好き
ということが、この考えの一つの大きな要因なのかなと思う。
いやLINEでもすればと言われそうだけれど、味気ないし、メッセージって(わたしはやりがちだけれど)長文を送るに適していない。そして長文が返ってくることもない。この人のために考えた、テーラーメイドな文章や思いをどこに吐露すればいいのか??そういうコミュニケーションはもう成立しないのか?と、そういうことだろう。メールを送ればいいのかもしれないけれどそうやってメールをプライベートできちんと書く文化はもう残っていない(と感じる、、。)
キーボードをたたいてコピー&ペーストでつくられる文章ではなくて、目の前の人に向けて、今の自分が静かに向き合って書く文章が、書きたいんだと。そしてできれば受け取りたいよねと思う。

そして、いわんや
私的なやり取りはSNSでは、なかなか行われない
ものなのだ。個人的なやりとりをオープンにする必要ないしね。そしてSNSなんて、アカウントをきれいに使い分けて自分をブランディングしていない限りはだいたい普段はいろんな顔をして向き合っている誰かに対して、「当たり障りない」顔をして当たり障りのないことを書くのが常だ。そうでなければブランディングしている、○○向けの顔。別にどちらが好きでも嫌いでもないけれど。
面倒なやつだから、「みんな」に向けられた言葉は、「みんな」に向けられているのであって、そこに自分はいない、と、感じてしまう。「みんな」のなかの自分だとは感じられなくって、当事者意識がめちゃくちゃ薄い。(これは「消費者」的な感覚でいままで生活していたことが影響しているのか?とか、人間関係の距離感の築き方とか?いろいろ最近自分の過去のことを振り返って考えている)

そして、年賀状はきちんとここに対して襟を正して、今までの人間関係を振り返ってコミュニケーションできる機会だったんだなーと思う。
もちろん出さなくなって無くなったコストもあるけれど、そういう年を迎える姿勢とか、その機会に自分の人間関係に気を向けたり、久しぶりに連絡を取ってみたり、あるいは誰かのことを気にかけたり、という余裕がどうにもなくなっているのかもしれない?と、考え直してみたり、など。
かく言う自分は喪中にあたるので新年のあいさつはしなかった。でもそのことだって誰も聞いてくれないし本当に近しい数人にしか話していないからさみしくなったり!したよね。(喪中言い訳にするなら次からはどうするのって話ももちろんあるから来年はどうしようかな、と思ってるところだけれど)
最近手紙やクリスマスカード改めて出していいな〜と思ったので余計に思っている。

余談だけれど。
このニュースに対して、声を挙げられない、申請型の福祉に対して助けの求め方を知らない人が増えていくだろう、と、いうコメントを見た。相互扶助というか、互いに気にかけて周囲が異変に気付くことのできない孤立は、やっぱり増えていて、大げさだけれど年賀状然り些細なコミュニケーションの機会がどんどん社会的に失われていくことをもう少し危ぶんでもよいのではと思ってしまう。もちろんインターネットは時空を超えたコミュニケーションを支えるけれど、それに頼ろうとして失われているものもやっぱりあるんじゃないか、と、思う。(たとえば子供の教育だってそう。)
それをどうやって解決していくのか、という点は、前近代的な方法に戻るのがやっぱり最善なのか、何か新しいテクノロジーやシステムが解決に寄与できるのか、ということはまだわからない。でも問題意識はもっともっと、必要なのではないか…。現代が失った物は何なのか、それが担保していたものは何だったのか、ということをぼんやりと考えたりもする。

Facebookを眺めながら、Facebookの近況報告もあながち悪いものではないのかもね、フラットにこういうことがあったんだ、って遠巻きに見られるし、とも思ったりした。noteもこうして思考をたれ流したりする、価値はあると思うから、今年はカッコつけずに書いていきたい所存。

もう今年も始まって一週間が、気づいたら経ってしまっていたけれど、
今年も、今年こそ、よろしくお願いします、ちゃんといろいろ記録していくぞ。

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