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あのときと同じ、無力感を感じて

9年前の春、何をしていたかと思い起こすことが増えた。
それもこれも昨年には恐れてもいなかったウイルスのせいだ。

実際には、今も9年前も、社会に対して今のところは何の役割も果たしていない宙ぶらりんな状態だ。だからこそ余計に、ふとあの時と同じ閉塞感や、無力感を感じているのかもしれない。
また始まった自粛ムードに辟易として、思考停止状態で「新型コロナウイルス感染拡大防止のため」と紋切型のように自粛や中止や営業時間の短縮といった変化を起こしていく社会のなかに埋もれて、ただただ自分の活動は「不要不急」になってしまうタイミング(春休み)で引きこもるしかできない、と考えてしまう日々だ。そうやって社会の閉塞感に自分自身の気力さえも見失っていた。

9年目という、今日の日だって、どうやって向かい合えばいいのか、わからない。できたら正面を向いてみたくない、とさえ、思ってしまう。

自分は当事者ではなく、当事者の知り合いがたくさんいる、という程度。
だからこそ今日の迎え方は、徐々に徐々にわからなくなっている。
寒い日だった。まだわたしは中学生だった。あの時から、9年も経つが、まだ「復興」の先は見えていないようにも見える。
あの時から始まったたたかいは、落ち着きつつあるけれどまだその先にいる。時間はつながっているし、途切れていないのだと思う。
「復興」は終わるもの、区切りがつくものなのだろうか?

あれから9年経って、わたしは学生を終えようとしている。
あの9年前の出来事をきっかけに、いまの進学、専門分野、進路、出会い、いろんなものに、少なからず、間接的にも影響を受けている。
だからこそ、この日は特別だけれど、この日だけが特別ではないと、
そしてあの時も、こうして何気なく流れている日常の中の一瞬だったんだと強く思う。
あの頃を風化させないことも必要だけれど、わざわざ無理に思い起こすことだけを求める必要はない。今じゃなくってもよいのだ、と思う。
今はこうして、思いをはせること、静かに、何の言葉もなくただ、
多くのあの日からの犠牲と、まだ見ぬ将来に向けて祈るしかできない。

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