読書の記録【超孤独死社会】

読みました

超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる 菅野 久美子

孤独死の話とか、社会的孤立といった話自体には、災害復興のことを研究しているときに、扱っている先生にもお世話になったので比較的聞いているテーマではあったけれど、改めて読んだ。
先日嫌われ松子の一生もちょうど見ていたので、既視感を覚えた章もあったな、と感じた(嫌われ松子の一生の話もちょうど、似ている、と挙げられていた)

特殊清掃の現場のほとんどが孤独死だという。
孤独死の前には、ほとんどの場合社会的孤立が伴う。その様子までもが、記述されながら、いくつかのケースを取り上げている。


印象に残ったのは、

ひとつは、孤独死に至る前に、自宅の清掃を頼もうとした女性。団地に住んでいた女性が、自宅の清掃を頼んだあと、テレビ出演を打診され(おそらく出演してから)近所の女性たちに、早く言ってくれればいいのに、手伝うよ、といわれて清掃をキャンセルしたというエピソード。
こういう近隣コミュニティのようなものを、どうしても期待しているような部分があるけれど、でも実際はもうなかなか難しいのではないかと、個人的には思う。(分譲、UR団地か何かだろうか、、、。)

そして、もう一つは特殊清掃員の、一人のことば。

「孤独死する人に共通するのは、本人が孤独だったり、親族と疎遠だったりというのがやっぱり大きいよね。人が社会を作ってるわけだから、身近な縁を大事にしていかないと。世の中おかしくなってるよね。」

以前、物質的・経済的豊かさはどこかで(貧困があったとしても)社会としては獲得してきたからこそ、プライバシーが生まれ、他人の環境に対して入り込めなくなっているという話をしていた高齢の方がいた。それは、あながち間違っていないなと思う。
恐らく本当に困っている人やその様子が、見えにくくなっている社会なんだと、調査をしていても、ただTwitterで貧困などのトピックを追っているだけでも見えてくる。おかしくなっている、と思う。

孤立するということ

正直自分も簡単に孤立しうると、読んでいるうちに思った。だからこそ、この環境が、どうしてこうなってしまっているのか、とか、どうすればせめてセーフティネットが用意されるのかとか、考えもした。
でも、本書の3章にあるようなビジネスでの解決なり、ボランタリーな「活動」がそれを解決していく、仕組みになるのだろうか…前者は、金の切れ目が縁の切れ目、という様相だし、かといって後者も、当事者に対する負担が大きいことがとても懸念される。

家族や親族の縁も散り散りになっている様子が見られる。働き方も変わり、組織から徐々に個で働くことが選ばれるようになっている。
組織としてのセーフティネットが、会社や家族ではなく、より個人的なものに移り、居住や働き方も、地域や町といった空間からも切り離され、という状況になっている。
さまざまな関係性の分断が、孤立しやすいひとをさらに孤立化させ、一方で孤立しにくい人はよりひととつながっていくような、社会的な資本の格差もどんどん大きくなっていくような予感がある。

余談だが、東京駅地下で、ご飯を食べた昨日。一人で夕食をとる人の姿が多くって。そうか、そういう町なのだなと改めて思った(自分だって、何もなければ一人で食べてしまうことは全然あるのに、そうでないと気になる)

孤独死、孤立のこと

被災地の復興に関心を持ってきた、ここ数年の中で、「被災を受けて孤独死していく中年男性という層」という存在の指摘については、たとえばこのような形で指摘されているのを見てきてはいた。でもそれが日常的なものだとは、(想像すれば分かったようでもあるが)考えてはいなかった。
どこかでピースがずれてしまえばあっけなく、それが崩れ続けてしまうというのは災害に関係ない。

孤独死、特殊清掃という知らない世界を見られたのはよかった。生の映像などではきっと(倫理的に、あるいはさまざまな制約のために)見られないものをこうして読めるのも本、文章の力だと思う。
自分も、あるいは家族も、いつかこっち側にいることだってあり得ることだと思う。せめて自分の身の周りから、あるいは町を考える側面から、社会的孤立が蔓延しつつある社会だという問題意識は、持ち続けていたい、と思う

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