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ワーグナーの部屋

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『歌劇「タンホイザー」 序曲, バッカナール(パリ版)』 リヒャルト・ワーグナー

マックス・ゴバーマン指揮 The Vienna New Symphony 1960年(?)録音 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)は、リヒャルト・ワーグナーが作曲した、全3幕で構成されるオペラ。WWV.70。一般的には『タンホイザー』(Tannhäuser)の題名で知られている。序曲、第2幕のエリザベートのアリア、「大行進曲」、第3幕のヴォルフラムのアリア「夕星の歌」は、独立してよく演奏される。 概要 アメリカ海兵隊演奏。 『タンホイザー』序曲 メニュー0:00 1995年5月録音。 この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 ワーグナーが5番目に完成させたオペラ(未完の『婚礼』を除く)で、ワーグナー作品目録では70番目(WWV.70)にあたる。副題に『3幕からなるロマン的オペラ』(Romantische Oper in 3 Aufzügen)という題が与えられている。 前作『さまよえるオランダ人』の持つ番号形式を本作ではこれを脱却し、またワーグナー自身の言う「移行の技法」が随所に巧みに用いられていることが特徴である。 舞台は13世紀初頭、テューリンゲンのヴァルトブルク城。 作曲の経緯 『タンホイザー』が着想されたのは1842年(29歳)に遡る。当時ワーグナーは同年の4月にパリからドイツへ帰郷しており、ドイツのドレスデンで『リエンツィ』と『さまよえるオランダ人』の上演の機会を探していたが、この時期からすでに『タンホイザー』の散文の草稿を着手していたとされる。 1842年6月にワーグナーは場所を移して、ボヘミアの山岳地帯のアウシヒにて散文の草稿を仕上げる作業を6月28日から7月6日にかけて行い[1]、宮廷歌劇場の指揮者としての仕事もあったため一時中断をしたが、翌1843年5月22日に散文の草稿を韻文化した。また韻文化した草稿に音楽を付加するための小スケッチ類を多く書いたのち、夏にテプリッツに場所を移して、1843年初秋に作曲に着手した。第1幕は11月にテプリッツで、第2幕は翌1844年10月15日にドレスデンで、第3幕は12月29日に、序曲は1845年1月11日にそれぞれ作曲を終わらせ、4月13日に全体の総譜を完成させた。 なお当初『ヴェーヌスベルク』という仮題をつけていたが、知り合いの医師からの助言で現在のタイトルに改題している[注釈 1]。 初演 1845年10月19日にドレスデンの宮廷歌劇場でワーグナー本人の指揮で初演された。表面的にはある程度の成功を収めたものであったが、優秀な歌手を揃えた上演であったにもかかわらず、聴衆の反応は冷淡であった。『リエンツィ』のような作品を期待していた大半の聴衆は、新作の『タンホイザー』の内容を理解できなかったことが要因であった(終幕においてヴェーヌスが姿を現さないこと、エリーザベトの葬列が出されなかったことが挙げられる)。 上演2日目(12月27日)には観客が半分に満たず、3日目(12月28日)にはそれを上回ったものの、8日間上演されたのちに打ち切られた[3]。ただし1850年代中頃までにはドイツ各地の歌劇場40か所で上演されている(ベルリンは1856年1月7日)[1]。 「パリ版」による初演は、1861年3月13日にパリ・オペラ座で行われた。 各国での初演 1853年1月18日にリガで行われた公演は本作初の海外初演である(ドレスデン版による)。1854年11月25日にプラハ、1859年4月4日にニューヨーク(メトロポリタン歌劇場での上演は1884年)、1866年1月13日にオーストリアのテメシュヴァール(現在はルーマニア領)、1876年5月6日にロンドンでそれぞれ行われた。 パリ初演 1861年3月13日のパリ初演の告知 1861年にナポレオン3世の招きによって実現したパリでの初演はオペラ史上最も大失敗を引き起こしたものとして知られる。ワーグナーは2年前の1859年9月にパリに引っ越して住んでおり、目的は『トリスタンとイゾルデ』の主役を歌える歌手を探すために転居したものだった。1860年1月から2月にかけて、パリのイタリア座で行われた自作の演奏会を開催し、『さまよえるオランダ人』の序曲や『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲などを披露した。この演奏会で多くの芸術家たちから支持を集めたが、新聞などからは敵視され、加えて同地で自作のオペラを上演することを切望していたワーグナーは、この新聞批評によって望みが失われたことにひどく落胆したといわれる[3]。 その最中、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座で上演するように勅命が降り、この思いもしない事態にワーグナーはそれに応えるべく矢継ぎ早にオペラの添削とフランス語訳に着手した。この勅命が下りた理由にはパリ駐在のオーストリア大使の妻パウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人によるものとされている。夫人はワーグナーの崇拝者であり、パリ上演のために口添えをしたことが下りたことに繋がったといわれる[3]。ただしそれは「外交戦略」の一つとしてであった。 「パリ版」の改訂を終えたのは1861年1月のことで、上演のためのリハーサルは「春の祭典」120回、「ヴォツェック」の150回よりも多い、197回にわたって行われたと伝えられる。3月13日にナポレオン3世の臨席のもと初演を迎えた。だがオペラ座の予約観劇者で会員でもあるジョッキークラブの若い貴族の面々は、かつてバレエの挿入を要求した際に拒否されたことに対するワーグナーの態度に激怒していて、公演を妨害しようと企み、大きな嘲笑や怒号を行った。これにより初日の公演は収拾がつかない状態に至った。 2回目(3月15日)と3回目(3月25日)から徐々にエスカレートしていき、ジョッキークラブの貴族たちは仲間を呼び寄せて、ラッパや狩笛、鞭などを持ち出して妨害工作を行い、喧騒をきわめた末、公演が続行できない事態にまで発展した[3]。 この事態を知ったワーグナーは支配人に書簡で、自らの取った態度と習慣に従わなかったことの非を認め、『タンホイザー』の公演を撤回するに至った。 日本初演 日本においては、1920年(大正9年)12月29日に帝国劇場において、山田耕筰、小山内薫、近衛秀麿らが中心となって結成された日本楽劇協会により山田の実姉であるガントレット恒の渡欧資金募集の一環で、ドビュッシーの『放蕩息子(英語版)』とともに第3幕第1場と第2場を上演したのが、日本における部分初演であった。指揮は山田、合唱指揮に近衛、「演技指導」が土方与志といった顔ぶれで、30日に再演ののち、1921年(大正10年)1月17日と18日には大阪市立中央公会堂でも上演された。[4] 登場人物 人物名 声域 役 1845年の初演者 タンホイザー テノール ヴァルトブルク城の騎士。劇中ではハインリッヒ ヨーゼフ・アロイス・ティハチェク (Josef Aloys Tichatschek) エリーザベト ソプラノ ヘルマン1世の姪 ヨハンナ・ワーグナー (Johanna Wagner) ヴェーヌス(ビーナス) メゾソプラノ ヴェーヌスベルクに住む快楽の女神 ヴィルヘルミーネ・シュレーダー=デフリーント (Wilhelmine Schröder-Devrient) ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ バリトン ヴァルトブルク城の騎士でタンホイザーの親友 アントン・ミッターヴュルツァー (Anton Mitterwurzer) ヘルマン1世 バス テューリンゲンの領主 Georg Wilhelm Dettmer ビーテロルフ バス ヴァルトブルク城の老騎士。歌合戦でタンホイザーと対立 Johann Michael Wächter ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ テノール ヴァルトブルク城の騎士。歌合戦でタンホイザーと対立 Max Schloss ハインリヒ テノール 書記 Anton Curty ラインマル・フォン・ツヴェーター バス 吟遊詩人 Karl Risse 若い羊飼い ソプラノ Anna Thiele 4人の侍童 ソプラノ その他:テューリンゲンの騎士たち、伯爵たち、貴族たち、貴婦人たち、老若の巡礼者たち、ジレーネたち、ナヤーデたち、ニンフたち、バッカスの巫女たち、優美の三美人たち その他(パリ版で追加された登場人物):少年たち、クピドたち、サテュロスたち、ファウヌスたち 演奏時間 「パリ版」や最終稿の「ウィーン版」で約3時間10分(第1幕:約70分、第2幕:約70分、第3幕:約50分)。「ドレスデン版」はバレエが無いため第一幕が約5分短い。 楽器編成 オーケストラ・ピット 木管楽器:3フルート(ピッコロ持ち替え)、2オーボエ、2クラリネット、バスクラリネット、2ファゴット 金管楽器:4ホルン、3トランペット、3トロンボーン、テューバ 打楽器:ティンパニ(パリ版以降はヴェーヌスベルクで一時的に3人の指定があるが実際の上演では一人で済まされる場合が多い)、タンブリン、バスドラム、シンバル、トライアングル その他:ハープ、弦五部 バンダ(舞台上) コーラングレ、4オーボエ、6クラリネット、4ファゴット、12ホルン、12トランペット、4トロンボーン、スネアドラム、シンバル、タンブリン あらすじ 版について 1845年の初演時に聴衆が内容を理解できなかった点などを考慮して、ワーグナーは改訂を施しているが、「ドレスデン版」と「パリ版」を含め4つの稿が存在する[1]。 パリ版(1861年版) 1859年にパリを再訪した際、ワーグナーにナポレオン3世から『タンホイザー』上演の勅命が降りた。ワーグナーは、台本をフランス語に訳すだけでなく、音楽にも改訂を施した。主な改訂内容は、第1幕冒頭のヴェーヌスベルクの部分を改訂して「バッカナール」と称するバレエ音楽をつけ加えたこと、および第2幕の歌合戦の場面からヴァルターのアリアを削除したことである。 バッカナールの追加は、当時パリで流行していたグランド・オペラの慣行にならい、バレエの挿入を劇場側が上演条件として課してきたためである。ワーグナーも念願のパリでの成功の為に要求を受け入れたが、妥協し切れず、通例の第2幕ではなく第1幕にバレエを挿入した。このことは踊り子目当てに第2幕からやってくる貴族達には受け入れられず、当時の政治対立も絡んで妨害工作にまで発展し、上演3日で打ち切られる事態になった。しかしこの大失敗、スキャンダルが逆にワーグナーへの注目を集め、これを機にフランスの音楽界や文壇にも圧倒的な影響を及ぼすことになる。この際に使用された版が狭義の意味での「パリ版」であるが、これは今日ではほとんど演奏されない。この時点で序曲はまだオペラ本体から分離された形であった。このパリ版は170回以上の練習を費やした事でも有名で「ヴォツェック」の150回や「春の祭典」の120回よりも遥かに多い。 改訂によって『トリスタンとイゾルデ』以降の、より色彩的かつ迫真的なものに変貌を遂げた音楽が盛り込まれたが、このことは『タンホイザー』作曲当時の音楽との様式上の不統一を生じることにもなった。ワーグナーはその後も作品に手を加え続け、1867年にはミュンヘンで台本をドイツ語に再訳して上演した。