#6 物語はまるでコーヒーのようだ

 物語はまるでコーヒーのようだ。小説『名もなき星の哀歌』を読んでそう思った。この小説はハッピーエンドだったのか、あるいはバッドエンドだったのか。記憶にギャップあるあの少年と少女はどう思っていたのだろうか。パートナーが認知症を患ってしまったあの夫婦は。一方で全てを知っていたあの人たちは何を思っていたのだろうか。
 記憶を売買できることは魅力的なことだが、それによって生じる記憶の齟齬を思うとどうしても哀しさが溢れてくる。思い出の行き違いがありつつも、互いの考えを尊重し合ったあの二人の結末は決してバッドエンドとは言えない。ただハッピーエンドと言えないのも確かだ。お互いの気持ちが通じ合っていたときのことを噛み締めたまま、全く違う人生を歩んでいくことの切なさといったらない。ただその哀しさを抱えても乗り越えていこうよというのが、この作品の言いたいことなのかもしれないが。
 本当にこの物語はコーヒーだ。酸味の効いた苦い後味が永く続くコーヒーだ。まさにビターエンドである。そのほろ苦さもこの物語を引き立てるアクセントとなっている。
 思えば自分が今よりずっと幼かったときはこのビターエンドには耐えられなかったのではないだろうか。子供がブラックコーヒーを飲めないように、ビターエンドを楽しめなかったに違いない。きっとミルクと砂糖がたっぷり入ったハッピーエンドを好んでいたことだろう。
 だが長いとは言えない今までの人生の中でも数々の苦い経験をしてきたことで、今ではこの砂糖の入っていない小説のような作品を楽しめるようになった。それは苦さに慣れてしまったが故なのかもしれないが、より多くの作品を楽しむことができるようになったのは嬉しいことだ。まだミルクが入った作品でなければ読むことはできないけれど。
 いつかブラックコーヒーのように本当に苦い、バッドエンドの作品も楽しめるようになるのだろうか。自分はそこまで大人になることができるのだろうか。酸味と苦味の効いたブラックコーヒーを飲めるようになったら、またその感想を書きたいと思う。

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