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「何も知らない忌み子の子」第3話

百良ももらの母親・飌奈ふうなが涙を流したのと同じ夜。練摩れんまの家でもとある出来事が起こった。

「練摩~」

 風呂上りで濡れた髪をタオルで拭いていると、真楽まらが声をかけてきた。

「なに?」
「あなたがお風呂に入ってる間に、帰ってきたのよ」

 真楽は人差し指で例の廊下の奥にある部屋の方向を指差す。誰が、など練摩は聞かずとも理解していた。
 練摩は昨晩、話を聞いてからというものずっと廊下の奥の部屋を凝視していた。謎の緊張感から中に入り待ち伏せなどする度胸は無かったが、その代わり部屋の出入り口を見張り、物音一つ聞き逃さぬよう精神を集中させていた。しかし普段夜更かしをしない練摩は、日付が変わる少し前に廊下で寝落ちしてしまったのだ。ただ結局昨晩は帰ってきていないらしく、練摩はただ風邪をひきかけただけなのであった。

「お父さんが……」

 練摩はゴクリと唾を飲みこんだ。途端に、心臓の鼓動の音量が上がりだした。
 三日前からの体の異変。父親の存在をほのめかした転校生。数日間の出来事に因果的なものを感じ、不安や緊張の感情の中に微かな高揚感を宿していた。
 これから何かが始まる。そんな気がしてならなかった。

 練摩は真楽に背中を押され、廊下の奥の部屋の前に来た。

軈堵やがと~。入るわよ~」

 扉をノックし、真楽が声をかけるも中からの返事は聞こえない。人の気配が全くせず、本当に中に誰かいるのか疑ってしまうほどの静けさ。
 数秒経ってから真楽がドアをゆっくりと開けた。

 暗闇であった。

 部屋の電気はついておらず、広さのある部屋だというのに家具は一つも無い殺風景な光景が広がっている。ただ一つ、出入口の扉の真正面に窓が備え付けられ、開いた状態になっている。そこから風と月明かりが部屋に入る。白のカーテンがゆらゆらと揺れている。暦の上では春になったという物の、昼はともかく夜は冷える。冷たい夜風に満ちた部屋の中心に、確かに居る。
 先程、出入口の扉の真正面に窓があると書いた。その間であった。
 窓からの月明かりが直接差し込む床に、ゴロンと巨大な体が寝転がっていた。白い長袖パーカーに黒い長ズボン。両手を頭の下に置き、脚を曲げて組んでいる。乱暴に伸びた銀色の長髪は、月明かりを反射して絹糸の様にきめ細やかに輝く。顔の上には開いた小説本が置かれ、表情を伺うことは出来ない。が、聞こえてくる呼吸音やゆっくり上下する腹部を見る辺り、眠っていることは一目瞭然であった。

 真楽は出入り口のすぐ隣の壁についているスイッチを押した。数秒間無反応かと思えば、二、三度点滅して部屋の電気がついた。相当使っていないのか、電気から時々ジジッと電流が漏れているかのような音が鳴った。

軈堵やがと? 軈堵起きて…………軈堵!!」

 真楽が近寄り、声をかけながら体をゆするも起きる様子はない。痺れを切らした真楽は大声を上げた。その声に練摩が肩をビクッと跳ね上がらせ、眠っていた軈堵も低い声を微かに漏らしながら体を動かす。
 上体を起こしながら、顔の上の本を片手で取る。平均的な文庫本のサイズであったが、軈堵の巨大で岩のような手に包まれた途端どうしても小さく見えてしまうほどであった。

 本の下から現れた顔は、練摩の目には幽霊のように映った。
 大きく開いていない目の下に、信じられないほど濃いくまが出来ていた。真一文字の口に顔を隠すかのように長い前髪で、その不気味さはさらに増していた。

「なんだよ真楽……あっ」

 頭をボリボリと掻き、真楽を見てから練摩を視界に捉えた途端軈堵は固まった。

「え、れ…………なん、で」

「軈堵……色々言いたいことはあるけど、あなた、練摩と今まで一度も話したこと無いってどういうことよ!」

「いや……その…………それは…………」

「はっきり答えなさいよ~! 私はてっきり、留守の間はあなたが練摩のこと見てくれてるもんだと~!」

 真楽の詰問に、軈堵は弱腰に口を震えさせてたじろいでいた。パッと見で堅物の印象を受けたが、真楽とのやり取りを見ているうちに案外親近感のある性格なのかと、練摩は心のどこかで安心した。

「はぁ~もう……。練摩がね、昨日急に軈堵あなたのこと聞いて来て。それで、今こうしてあなたに会いに来たってことなのよ。私の質問は後でちゃ~んと答えてもらうとして……」

 真楽は出入り口に向かい、振り向きざまに「初めての会話ってことで、二人でちょっと話してなさいよ」と微笑みながら扉を閉めた。

 「ちょ、ちょっとお母さん!」と練摩が言うも無視。

沈黙が、しばらく流れた。
練摩と軈堵は目も合わせられず、ただただ時間が経過していく。

 気まずいのも無理は全くない。軈堵はともかく、練摩からしてみれば軈堵はほとんど初対面の他人にすぎないのである。
 今すぐにでも逃げ出したいとむず痒い思いをしていたのは、練摩だけでなく軈堵もそうであった。
 はくしょん、と練摩がひとつクシャミをする。冷える四月の夜風で湯冷めし、ようやく冷えが体全体に回ってきた様子だった。軈堵はその様子を見て、窓を閉じた。
 今まで辛うじて外の雑音で沈黙を装ってきたのもなくなり、完全な無音の空間が訪れた。
 ついに耐え切れなくなり、練摩は意を決して口を開く。

「あ……あのっ!………………………………」

 軈堵が練摩と目を初めて合わせた。
 声を出したのは良い物の、何を話すかは全く考えていなかった。

「は、初め……ま、して……」

「お……いや、初めましてじゃ……ないけど………」

「あっ、いや、そそ、そうらしいですけど、僕にとってはほとんど初めましてと言いますか……」

 練摩のその言葉に、軈堵は眉をひそめる。一瞬目を閉じ下を向き、再度練摩の方を向きなおした。

「それは…………その節は、本当に申し訳ない」

「へ? いきなり、何を?」

「何って……俺は今まで、練摩おまえの面倒見てこなかったんだぞ……」

「それは……それは、確かに思うこともあります。ですけど、僕はそれほど気にしてないので、そこまで謝る必要ないですよ!」

 練摩がそう言うも、軈堵はバツの悪そうな表情をする。

「そうか……。そういえばさっき真楽が、おまえが俺の事聞いて来たって言ってたけど、何聞いたんだ?」

「えっと……」

「あと敬語じゃなくていい。疲れるだろうし、使われる資格ねえしな」

 そんな無茶なと思ったが、実の父親であることが判明している以上、目の前に居るのは赤の他人ではなく家族なのだ。本人がそう言うのなら。練摩は咳払いをして話を続けた。

「その、お父さんの苗字って、鎖羅木さらぎさんなの? って聞……いたんだ」

 そう聞いた瞬間、軈堵の眉がピクリと動いた。

「……なんでんな事聞いたんだよ?」

 先程と比べて、少し声に圧がかかったような気がした。空気が若干ピリ付いているのを、無意識に肌で感じ取っていた。

「昨日僕のクラスに転校生が来て、その子が僕のお父さんが鎖羅木さんじゃないのかって。なんだっけ……まとが見えたからって……」

 軈堵は目を見開いて練摩を凝視した。呼吸が段々と荒々しくなり、汗がジワジワとあふれ出る。

「嘘だろ……? なんで……?」

 握りしめた拳から、ポタポタと血が流れ始めた。軈堵のただならぬ様子を見た練摩は、軈堵の元へ駆け寄り「お、お父さん? 大丈夫?」と心配する。

「練摩……」

 唸り声のように声を絞り出し、練摩に話しかける。

鎖羅木家あいつらとは関わらない方がいい。いや、。ロクなことがねえぞ」

 軈堵は立ち上がり、窓辺に向かいしばらく無言で外を見た。そして窓を開けた。
 風が一気に部屋に吹き込み、軈堵の長髪がなびいた。

「ロクな……こと……?」

 練摩は訳が分からずただ軈堵の言葉を繰り返す。その声は軈堵には聞こえていなかったようだ。

「……悪い。一人で考え事したくて。少し出てくる」

 窓のレールに足を乗せたかと思うと、軈堵はレールを蹴り上げ、夜の闇に飛び出した。忍者の如く、一瞬で姿を消した。練摩が慌てて窓から身を乗り出し外を見る。山沿いに立っている練摩の家は真隣が山に面しており、木々が生い茂り林立している。そこから遠くの方で微かに、ガサガサと生き物が移動するような音が聞こえたかと思いきや、風の音でたちまちかき消された。
 鎖羅木家の人間は並外れた身体能力を持っていることは聞いていたが、こうしてみると人間かどうかも怪しく思えてきてしまう。

 関わるなとは一体どういうことか。その言葉の真意は、今は軈堵自身にしか分からない。他にも、今まで練摩と関わりを避けていた理由など、軈堵に関する疑問はいくつもあった。しかしこうして本人が居なくなってしまった以上、一人で考えたところで答えは見つかるわけもない。

 あの様子。鎖羅木家と聞いてからのあの様子は、明らかにそれまでの軈堵の反応と相異なっていた。そして関わるなという発言。軈堵と鎖羅木家の間には、何か深い事情があるように思える。

 しばらくすると、真楽が部屋に入ってきた。

「話出来た~? って、あら? 軈堵は?」

「なんか考え事したいって、窓から……」

「え~? 私の質問に答えてもらうはずだったのに~! あの人ったら」

 真楽は不満そうに眉をひそめた。練摩は窓を閉め、真楽の方に振り返りながら「ねぇお母さん」と問いかける。

「お父さんって昔、お父さんの家で何かあったの?」

「昔? う~ん、私も出会う前の事は軈堵から聞いてないのよ。だから知らないわ」

「じゃあ、お父さんのその、鎖羅木家って、なんか有名な家だったりする?」

「有名なのかしら? 別にそうでもないと思うわよ。軈堵以外に鎖羅木さんって見たことないもの」

 真楽ですら知らない。真楽にすら教えていない。軈堵に対する謎は深まるばかりであった。
 その時、少し離れたところで洗濯機の音がした。

「洗濯物終わったみたいね。今日はもう遅いから、早く寝なさいよ~」

 真楽はそそくさと部屋を出て行った。一人取り残された練摩は、心のわだかまりと好奇心が拮抗きっこうして武者震いする手を抑える。

「……今度、百良ももらちゃんに聞いてみよう」

 窓から月を見上げ、そう呟く練摩であった。

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