杏仁クルーエル・ワンマン・ライブレポート

四月二十八日、晴れ。杏仁クルーエル「決壊」発売記念ワンマンライブ。

まだ四月だというのに、外はもう初夏のようで、私は少しだけ違和感を感じていた。服は何を着て行こうか、シャツだけだと帰りは冷えるだろうか。妻が友達へのプレゼントを買っておきたいというので、ライブの前に吉祥寺の街を歩く事にした。妻が品を選んでいる間、私はぼんやりとその姿を眺めながら、心の中の違和感を探していた。数件回った後、そろそろ向かおうとしたその瞬間、私は違和感の正体に気付いた。

晴れているのである。。

杏仁ファンにはお分かりだろうが、ここぞと言うライブの時には必ずと言って良いほど雨が降っていた。ざぁざぁだったり、しとしとだったり差はあれど、思い返すと雨。お足元が悪いのだ。対バン(共演のバンド)はみなMCで「雨の中来てくれて、ありがとうございます」と話す。しかし、杏仁クルーエル局長こと五十嵐善右衛門は決してその言葉を言わない。お足元が悪い中〜なんて話してた事は一度もない(と思う)。
五十嵐善右衛門は稀有なソングライターであるが、五十嵐君の最も素晴らしいとする所は詩に在ると考えている。彼は孤独を時に寂しく、時にユーモラスに、時に尊大に、時に美しく表現する。一面だけを書くのではなく、あらゆる角度、孤独への光の当たり方、その時に出来る影の位置、表情など、立体的に、そして素晴らしい色彩感覚で詩を描くのだ。彼の描く孤独には肉も骨もあり、触るとゾッとする程に冷たい。しかし本人はそれを面白おかしく我々の前に披露するのだ。
雨は彼の孤独の舞台装置にはならない。そんなもの杏仁クルーエルの歌の前には必要ないのだ。よって、一々そんな事を話す必要も無い。まぁライブに赴く私達にとってはお足元が良いに越した事はないのだが。。

吉祥寺WARPに着いた私は、ハッピーアワーで安くなっているビールをここぞとばかりに購入し、それを呷った。ファン同士、馴染みの人もいれば、知らない人も大勢いる。当たり前だが、時の流れを感じた。私が知らない間にも杏仁クルーエルは歩いている。その事が私にはとても嬉しく思えた。

喫煙室で携帯を見遣り、そろそろ始まるかなといった所でハッピーアワー(2回目)のビールをもう一本購入し、呑兵衛二刀流でもって地下へと潜った。
出囃子が流れる。はっぴぃえんどの敵タナトスを想起せよ!が流れる。いつもより長めに流れている。初ワンマンの始まりを噛み締めていたのか、丁寧に音をチェックしていたのか、はたまた只の緊張か、私では本当の所は分からなかったが、ステージの上にいつもと違う、冷たい熱を見た。

冷たい石畳をコツコツと歩くような、うら寂しいイントロが流れる。一曲目はがらんどう。ぼんやりしているうちに、いつの間にか取り返しのつかない所へ迷い込んでしまったのではないかという不安。ふと周りを見渡すと、がらんどう。偏に風の前の塵に同じ、と締め括るこの曲を初めて聴いた時は、ライブの始まりに持ってくるにはニヒリズムが過ぎるのでは?と感じていたが、違った。そうではないのだ。まず、杏仁の描く世界は前提として、偏に風の前の塵に同じ、なのだ。此処を以てして始まりとなる。私は杏仁クルーエルの演奏するがらんどうに迷い込んで、風の前の塵となった。

がらんどうの世界に取り残されていると、すかさず二曲目、あさつゆは昨日の罪が始まった。コーラスの効いたベースと小気味良いハイハットの音。がらんどうと打って変わり、水彩画のような美しさを持ったこの曲は、展開が進んで行くにつれ、感情が溢れ出ていく。必要最小限のギターフレーズが男性の心情を女性的に描き出していく。
その勢いのまま、かどわかしに繋がっていく。この曲が好きなファンは多いのでは?私もその一人で御座います。イントロのギターリフで心を鷲掴みにされた所に、夕暮れ待つ遊具が隣で泣いている/地に描いた名画の未来見て、という詩。情景描写の巧さに息を呑む。黄昏時、拐かされる幼い私と現在の私が交錯していく。公園に伸びていく影が見える様だ。心臓を掻きむしる様なギター。自問自答、届きそうで届かない。ドラムがそのもどかしさから感情を露わにしていく。あの日の、カドワカスコエが頭のどこかで聴こえている。

MCが始まる。五十嵐局長渾身の恨み節。次曲、平家物語を端的に解説するこのMCは、杏仁ライブの定番ともなっている。平家物語を暗唱出来なければ帰さないと言う理不尽な教師は、教え子と純愛の後、結婚する。その事をただひたすら淡々と述べていく様は非常にユーモラスに聴こえるのだが、ふと冷静に考えると怖くなる歌でもある。
何か不穏な事の始まりを告げる様な銅鑼を模したベース。バンド全体がAメロに突入するや否や、私達は夕暮れの教室に連れ去られる。立ち尽くす私に教師が何か怒鳴っている。理不尽や不条理、下卑た大人の感情。自分を取り巻く世界の歪さに吐き気を覚え、抑えられなくなった感情と共にラストまで突っ走っていく演奏は、観ていてまったく爽快である。特にラストのギターソロ最高でした。

軽快なギターから始まる五曲目、海が見えるは、あの角を曲がれば海が見える/考えすぎて真夜中死神が見える という非常に印象的な詩を持ち、ペースダウンしたサビでそれを聴かせる「決壊」の中でも異色な曲である。真夜中、車の窓ガラスに映った自分の顔を死神と歌う。私は、この曲が真夜中のまま終わってしまう事がとても辛く、美しいと思っている。ラスト、テンポアップして真夜中走り抜けていく様を杏仁クルーエルの三人は今回のライブで描き切っていて、私は少し救われた様な気持ちになった。

ハイテンポな曲が続く六曲目、渦になりたい。気付けばライブはかなりの熱を持っており、私達の酔いも良い感じに回って来た頃。トイレを流した時の渦から着想を得たと言うこの曲は、理解の及ばない他人へ「残酷な言葉を持てるだけ用意」するのだが、そんな事を考えてしまう自分にも辟易とし、渦になって消えたいと願ってしまう、なんとも聴いていて苦しい曲となっている。そんなヘヴィな曲ではあるのだが、本日の演奏でとんでもない熱量を得たこの曲は、どこか清々しく、そんな自分も肯定してくれる形に変容していた。

重々しいインプロから続く、夜更かし羊の夏時間はこれまでのライブで高まった我々をまた一気に暗闇へと引き戻した。インプロからAメロへ、長い緊張が続く。そして張り詰めた空気を一気にサビで弾けさせる。酩酊し始めた脳みそが、爆音の中でチリチリと音を立てる。杏仁クルーエルはここまでタフになっていたのかと改めて気付かされた曲だった。
やるかな?やるだろうなと思っていたルウト246。メロディの美しさが際立つその曲は、私もバンドで共にライブをしていた頃に杏仁がよく演奏していた曲だった。名曲揃いの中で、少しだけ地味に思えたその曲は、時間を経て、とても美しく変態していた。

風俗のMCが挟まり(割愛…笑)、パライソネオンのイントロが流れると、会場の空気は一変した。先程までの決壊の曲を中心としたデカダンな世界観から一転して会場は妖艶な紫色に包まれる。酩酊した頭で迷い込む、妖しく光る歓楽街。手招きされるまま、その街へと消えていく私達。また、それを外から眺めている様な、自分が二人いる不思議な感覚に陥った。杏仁クルーエル真骨頂ともいうべき美しく儚いメロディに息を呑み、静かに曲は終わっていく。サヨナラの音に、あともう少しと延長を頼もうとした所、三人はそのまま猫窓際に突入する。勢い付いたサウンドは、悲しみを振り払う様に進んで行く。名残惜しむ暇などない。いや、やっぱり名残惜しい。いやいや、そんな暇などない。と、なんだか堂々巡りしてしまうのだが、それが人間だろと五十嵐善右衛門が歌っている。

MCにて、第一部はあと二曲だと告げられる。ハイハットの4カウントから喧騒映す柳の瀬が走り出した。この曲で特筆すべきは、なんと言ってもサビの美しさだと私は思う。サビなんだから当たり前だなんて言わないでください。今もしこの文章を読んでくれている方がおりましたら、是非、曲を流してみてください。感情的なメロディーと、今ひらけた車道に立ってる/生きる意味なんて知らない猫みたいに、という詩が、なんとも伸びやかに響く。生きていく上での悩み、焦燥、とっ散らかった心が霧散して、ポツンと車道に独り放り出される。其処彼処に潜む誘惑を/消去法でコンビニエンスストア、という二番の詩も面白い。あるある〜!とクスッとしてしまう詩にも日常の侘しさがあり、現代を生きていく上でのしがらみが、巧みに表現されている。
それをサビが全てさらっていくのだ。ビュウと吹き抜ける風の様なメロディで。これもがらんどうと同じ様なテーマではあると思うが、こちらは幾分か前向きに思える。初めにがらんどうを置き、終盤にこの曲を置いたのには多分意味があるのだろう。詩だけ見ると後ろ向きに聴こえるようなこの曲も、三人の演奏で聴くと、ドラマチックに響く。

第一部はウシミツの花火でじっくりと幕を閉じる。三人のこれまでの歩みを噛み締める様に。真っ暗闇の道程をウシミツの花火が照らし出す。そこには杏仁クルーエルの音楽を心から楽しむ私達がいる。険しい道だったろうし、これからも辛い局面は訪れるだろう。息が伝って枯れた記憶も/悪くないな、と最後、絞り出すように歌う五十嵐善右衛門の姿は、私の目にとても美しく映った。


第一部が終わった。地下から浮上した私はバーカウンターへ向かった。当然、ハッピーアワーは締め切られており、私の財布はケチ臭くその口を閉じようとしたが、最高のライブを見せられたのだ。酔いも相まって気が大きくなってしまうのも然るべきである。まだまだ酒を注文し、酔わせて頂きます。

第二部は編成が変わり、ステージ上には五人立っていた。先程の第一部では常に緊張が張り巡っていたが、第二部の始まりを前にした私の胸には、何か得体の知れない高揚感の様なものが在った。何が起こるのでしょうか?五十嵐善右衛門の言葉と共に鳴り出したイントロは、杏仁クルーエル屈指の名曲、懐中華街。五人編成となり、彩度を上げたサウンドは、会場を一気に塗り替えていく。Bメロ、付点8分のディレイで否応にもあげられていくテンション、流れるようなドラムフィルでサビに傾れ込んで行く。懐かしい街思い出して/あの頃の景色探す/退屈だったゴミ箱の中から引っ張り出してさ 皆の手が上がる。加わったコーラスがその世界をグングンと引き伸ばしていき、ブリッジから一気にラストへ収束していく。なんて音楽。
ラストのスネアが弾ける。すると、軽快なドラムが夜の隙間から顔を出し、そのまま夏の迷路が始まった。Aメロ、ギターのアルペジオが夏の気怠い空気を連れてくる。夕立の気配から逃げ込んだ先の地下鉄は、まるで出口の無い迷路の様。そのまま何処知れず流れていく私をドラムのブレイクが無理矢理会場に引き戻す。朝も夜も君を待つ平行線/陽炎揺らいだ夏の迷路 サビで一気に打ち下ろす演奏に思わず震える。初期曲であるにも関わらず、今尚成長し、五人の演奏でその幅を広げていた。

こんばんわ杏仁クルーエルです、と始まる五人目のメンバーやまかーわさんのMCに会場の頬が緩む。僭越ながら一曲歌わせて貰います、と告げ、始まったのは連鎖的明星。う、歌うま!ビブラートすご!声質も絶妙にハマっており、急に彼が何某かの指導者に見えてきた。交錯するツインギターを背に、青白む空を見つめている。異国の衣装に身を包んだ彼が指差す先には明けの明星が煌めいていた。

打ち鳴らすベースが暗闇からギターを引き摺り出し、銅鑼の音が何かの幕を開ける。私達は知っている。路地裏をベースが這い回り、スライドギターが血の匂いを漂わせる。この4カウントの後に来る暴力を私達は知っている。




堰を切ったように傾れ込むサウンドが私達をグイグイと押し流す。始まったのはSolid State Shinkei Suijaku。爆音に流される私達が慌てて掴むギターリフは、私達をそのまま一気に最高潮へと引き上げる。Aメロの退廃的で暴力的な世界へと投げ出された私達は、戸惑う間も無くサビへと引き摺り込まれていく。まるでカンフー映画のアクションシーンの様なブレイクが挟まり、ギターソロは狂気の路地裏を踊る様にすり抜けていく。私達がもつれ込んだ先には不穏な空気漂う中華料理屋。油でギラついた床、ビビッドな内装、転がる酒瓶。回転テーブルが止まるや否や始まった乱闘に酒を浴びながら私達も飛び込んでいく。こんな状況に引き摺り込んだ杏仁クルーエルの五人は、収集のつかなくなった我々の心をニンマリとした笑顔で眺めつつ、一言、サイナラと残して去っていく。

ラストの曲はみなとみらい。先の曲、Solid State Shinkei Suijakuとは打って変わって、穏やかで、それでいて切なく儚い名曲。ゆったりと揺蕩う未来を眺めている様。広がっていく音像が私達を包み、どこか物悲しいメロディーが心の中へと収まっていく。夢を見させてくれよと独りごちるように歌う五十嵐善右衛門に私は胸を打たれていた。

酩酊した頭の中、まだ終わりでは無いと確信した私はバーカウンターへ急ぎ、追加の酒を注文した。いそいそと先程の位置に戻ろうとすると、アンコールの声に応え、杏仁クルーエルがステージに上がった。再び三人編成の見慣れた形に戻り、MCが始まる。重大発表があると話す五十嵐善右衛門はどこか楽しそうに見える。ツアーをもう一度周りますと発表した杏仁クルーエルに、観客から温かい拍手が贈られる。私はどこか緊張していたのか、少し安堵していた。そんな感じでやりますか。と、局長の緩い号令から、空気は少しずつ高まっていく。熱帯魚と鮮度という曲です、その言葉が発せられた瞬間に緊張が一気に張り詰める。ギターとベースとドラム、三人がお互いの間合いを詰め合い、詰め合い、詰め合い、瞬間、斬り合うようなそんな音。バタバタと倒れ、生き残ったベースがゴリゴリと暗闇を削る。全体が合わさって、一気に曲のテンションを上げていく。キメの多いこの曲は、その度にシーンが切り替わるように目紛しく展開していき、最後のサビに流れ込む。

世の中、流行り廃りはあれど、誰かが良いと言っているから良いモノの訳ではない。自分が実際に見て感じたモノ、それを良いと思える事が、良いよな、五十嵐善右衛門は最後にそう話し、ラストの曲、微熱湾景の演奏が始まる。風の吹く様なギター。まるで映画のエンドロール。私達はその余韻に身を委ねながらも、スタッフロールまで凝視するかの如く、しっかりと杏仁クルーエルのステージを目に焼き付けていた。

終わったかと思いきや、酔いから覚めたく無い会場はダブルアンコールでもって、杏仁クルーエルをステージに引き摺り上げる事に成功していた。
照れながら、しかしやはり嬉しそうに五十嵐善右衛門が言う。もう一回同じ曲、熱帯魚と鮮度やります。終わっていくステージ、名残惜しさを振り払う様に三人の演奏が走り出した。。


ワンマンライブが終演し、皆それぞれに余韻を転がしていた。私は震えていた。酩酊した頭で震えていた。私はこの日、杏仁クルーエルの一つの到達点を見た。此処はまだ彼らにとって、ただの通過点に過ぎないのだろう。だが、それであっても今日このステージを目と耳と肌で体感出来た事を本当に、心から嬉しく思った。

妻と友達と三人で帰った。夜はやはり肌寒く、シャツを選んだ私を笑った。居酒屋に入り、今日のワンマンについて話し、盛り上がる。他愛無い話を交えながら。タバコを吸いに外へ出る。吐く煙は、私を置いて空へ昇って行く。二本目に火をつけた瞬間、冷たい石畳を叩く様な、あのフレーズが何処からともなく聴こえてくる。ギクリとして辺りを見渡すと、いつもの街が、私の知らない表情で此方を見ている。びゅうと風が吹き、塵となった私は「がらんどう」に迷い込み、これを書いている今も、未だ抜け出せずにいる。

四月二十八日、晴れ。杏仁クルーエル「決壊」発売記念ワンマンライブ。

この拙文が、この日を思い出す一助となれば幸いです。ここまで読んで頂きありがとうございました。ありがとう杏仁クルーエル!!!

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