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ショートショート 34 世間の流行はメゾピアノ

「若い子の気持ちがわからない」
 俺は居酒屋の個室で友人である入江に相談していた。しかし入江は持っていたビールを持ったまましばらく固まった後で大笑いした。
「おい、笑うなよ」
「だって、いつも安い飲み屋でいいとかいうお前がわざわざ個室まで用意して、何を相談するかと思えば、そんなことかよ」
「そんなことってなんだよ」
 俺は真剣に悩んでるっだっつうのと、ビールを勢いよく飲み干す。昔はそうするだけで悩みなんてどうでもよくなったというのに、今はむしろ不安が増すばかりだ。こうやって酒で逃げてきたツケが回ってきたというのか。
「あーすまん、すまん。もうちょっと詳しく聞かせてくれるか?」
 個室で向かい合うように座っていた入江は俺の横にビールをもって移動してきた。まるで飲み会のような動きだが、個室には俺と入江しかいない。昔から、入江は何か真剣に話を聞くとき、こうやって横並びになる癖があった。
「まぁ、昔からいろんなことを相談される強みだけを活かしてカウンセラーになった俺になんでも聞いてみ」
 俺はそこまで彼に悩みを相談したことはない。むしろ二人で悩みなんて関係なく遊ぶような仲だった。それでも俺が彼を相談相手に選んだのは、彼が先ほど自ら言ったように、彼がカウンセラーだからだ。それもスクールカウンセラー。若い子の気持ちを知るには一番の相談相手だ。
「メゾピアノって知ってるか?」
 俺はここぞとばかりに言ったつもりだったが、彼はメゾ、の時点で「あーね」と口にした。俺は最近聞いたばかりの言葉だったが、彼にとっては聞きなれた言葉だったのだろう。
「もちろん知ってるよ。むしろ、最近のトレンドだろ? なに、知らなかったのか、大地?」
 彼が俺のことを名前で呼ぶとき、それはたいていバカにしているときだ。肩に手まで回してきやがる。しかもビールを持っているほうの手だったから、少しズボンに落ちる。そこまで飲んでいないからこぼれたわけだが、もう酔っているのか?
「あ、わり」と自分の口元を先ほど拭いていた手拭きでぬぐおうとしてきたので、大丈夫だ! と自分のハンカチで拭いた。
「それだよ!」
「え?」
「だからそれがメゾピアノだって」
「どういうことだ?」
「すまん、説明が足りなかったな。それがメゾピアノっていうか、それに対してメゾピアノっていうか……」
 いまだに説明が足りていない気がするが、ここで横やりを入れようものなら、彼は面倒だと言って話してくれなくなる。
 入江と大地。彼は苗字、俺は名前だが、二人は真逆だと言われてきた。なんでもかんでも水に流すから相談されやすいのが入江、頑固者で言葉をそのまま受け取る大地、といった具合で、よく比較されたものだ。なぜか毎回、入江がたてられる側で。
「そもそもメゾピアノの意味って知ってるか?」
 俺が首を横に振ると、入江はビールジョッキを机の上においてから人差し指を立てた。
「説明しよう。メゾピアノとは、音楽用語でやや弱く、という意味だ。若者が使っているのも同じような意味だな。なんだか、嫌なことがあったとき、例えば太った? とかそういう言われたくないようなことを言われたとき、やめてください! と言ったり、嫌な顔をしたら、相手を傷つけてしまうだろ? さすが日本人だ。傷つけられたからと言って安易に相手を傷つけようとはしない。むしろ自分は加害者にならないようにと気を配る。いいのか悪いのか」
「ごたくはいいから、話を先へ進ませてくれ」
 あぁ、ごめんごめんと彼は言って、水を一口飲んでつづけた。飲んだ水は俺のだったが、俺は口をつけていないからまぁいいだろう。
 あまり口を挟まないほうがいいのは事実だが、彼はよく話を脱線するところがある。深刻になり過ぎない。それでいて関係なさすぎる話はしない。それらは彼が相談相手によく選ばれる理由の一つだ。少しくらいならいいが、あいにく俺には時間がない。
 今日だって妻に何も言わずにいるのだ。家では妻が料理を作って待ってくれているだろう。酒が回りすぎないようにするために少し食べはしたが、早く帰らなくては妻になんていわれるかわからない。先日、少し大きな買い物をしたせいで、ご機嫌をとらなくてはいけない状況なのだ。あまり居酒屋に長居はしたくない。
「つまりさ。思いやりなんだよメゾピアノは」
「思いやり?」
「あぁ、嫌なことを言われたりされたりしたときに、メゾピアノ! っていうんだ。そうしたら相手は、あぁ、嫌だったんだなってわかるってもんさ」
 入江はまるで魔法を唱えるみたいに、俺を指さして再度メゾピアノ! と口にした。
「それさ、嫌だって、はっきり言えば済む話じゃないか」
「そこが、お前が娘の気持ちがわからないポイントだよ。今の時代、一言一言が大変なんだぞ。傷つけられたからって傷つけ返していたら、こっちが悪い奴にされかねない。嫌悪感もポップに伝える時代だ」
 意味わからん、と俺はビールを飲み干して、数枚の渋沢栄一を置く。
「おいおいどうしたんだよー。もっと飲もうぜ、つれないやつだなー」
「つれないやつ、はメゾピアノじゃないのか?」
「いやいやそれはメゾピアノハラスメントだろ」
「なんだそれは?」
 俺は個室のドアに手をかけて振り返る。彼の表情を見てしまった、と思った。
「いいかメゾピアノハラスメントってのはな……」
 結局俺が家に帰ったのは、日付が変わる少し前になった。ドアを開けると玄関に妻が仁王立ちで立っていた。
 まずい、とは思ったが、同時に、いつから仁王立ちしていたんだろう、さっきまではもしかしたら階段にでも座って待っていたのかもしれない。鍵もかかっていたから、開ける音で急いでこのポーズをしたのだろうか、などと冷静に考える頭もあった。
 妻の手には俺が買ったばかりのゴルフクラブがあった。まるで昔のヤンキーみたいに、首に当てて持っていたそれを妻が両手に持った瞬間、俺の頭の冷静な部分はきれいさっぱりなくなった。
「すまん! これには事情があって」
「事情?」
 ゴルフクラブを折ろうとする手が一瞬止まる。いいぞ、そのままでいてくれよ……。
「む、娘のことで相談していたんだ」
「そらのことで?」両手で持っていたのが片手になる。よし、よし、いいぞいいぞ!
「じゃあなんでそんなに酒臭いの? 大事な娘の相談に酒が必要なの?」
 両手に元通り。
「男には、酒が入らないと素直になれないっていうところがあってな……」
「なるほど」
 両手でクラブを持つこと自体は変わらなかったが、先ほどまでしていた。今から降りますよとマジシャンが観客見せるようにしていたのが、おろされる。
 よし、いいぞ、そのまま頭を下げて、ごめんなさいと言って、それを元に戻してくれればそれでいい。なんだったら俺が戻しておいてもいい。
 俺がクラブに手を伸ばした瞬間、妻は膝で思いきりクラブを折った。
「じゃあどうして連絡しなかったのよ!」
 もう一本、ゴルフバッグから取り出して折ろうとする妻。
俺は何度も叫んだ
「メゾピアノ! メゾピアノ!」
 言葉もむなしく、すべてのゴルフクラブは折られてしまった。同時に俺の心も綺麗に折れ、玄関のタイルに膝をついた。
「まったくそんなデクレシェンドデクレシェンドしないで。ほんとうにピアニッシモな男で情けない……」
 そう言ってリビングに消えていく妻も見ず、俺はひたすら「メゾピアノ……」と唱え続けた。

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