2024/2/12 我が聖地巡礼②もう一つの故郷、愛媛。
僕の地元は高知県四万十市西土佐というど田舎だということは昨日の日記に書いた。
でも実は僕の生まれについては少し違う。僕の生まれは愛媛県宇和島で、いろいろあって西土佐の祖母の家で暮らすようになった。
と言ってもそんなに遠い場所ではなく、むしろ遊びに行くなら宇和島に行くことが多かったし、なんなら高知なのに愛媛放送が入っていたくらいだ。
だから聖地巡礼をするなら、愛媛県も外せない。
まずは奥野川という山道を車で走る。曲がりくねった対向車とギリギリすれ違うような山道を進み、てっぺんまでつくとそこが高知と愛媛の県境。そこからはひたすらに降る。Sを何個もくっつけたようなコブクロと綾香も驚きも曲がりくねった道。降りなのでアクセルは踏まなくても進んでいく。右も左も山しかない道を恋人は自分はどこに連れて行かれるのかという表情で見ていた。
降り切ってまたしばらく走り、一度西土佐の道の駅まで戻る。おすすめのお弁当があったのだけど、残念ながら置いていなかった。せっかくなので四万十バーガーだけ食べた。あまりのショックに一箇所紹介するのを忘れたまま、再度愛媛へ。道中のスポットの思い出話を楽しそうに聞く恋人。本当はずっと見ていたかったけれど、運転中で見れないのが残念だ。ほとんど信号がない道のため、止まってから見るのも難しい。
空が広がるところに出ると暖かい陽気で窓を開けなければ少し暑いほどだった。D.Wニコルズを車内で流しながら、運転するのは、いつか夢見ていたひだまりや木漏れ日感そのもので、あぁこういうのを幸せというんだなと思ったほど。
愛媛の道の駅に寄る。そこには大きな鬼があって、恋人は写真に収まりきらない! とはしゃいでいた。
次にはよく通っていた本屋さんへ。小さくて品揃えは少なかったけれど、尊敬する大学の先輩の本がちゃんと2冊ともあってうれしかった。
詩と俳句と短歌が分かれておらず、文芸書もあまり目新しいものがなく、全く充実していない。よくこの本屋で本を買っていたものだと思う。客もまばらで、どうして僕が生まれて25年も残っているのか不思議なくらいだった。
店内はほとんど変わっていなくて、ここでいろんな物語に出会い、僕が京都に行く理由をくれたのだなと思うと、何か買って行くべきではあったのだけど、急いでいたのもあって申し訳ないけれど何も買わずに外に出る。
次に従兄弟の家にいく。従姉妹は二人とも仕事に出ていたけれど、叔母さんに会うことが出来た。生まれた当時の話や、結婚観など、いろんな話をして、聞いて、気づけばお昼をだいぶ過ぎていた。
お昼は、宇和島のきさいやという道の駅で、鯛飯を食べた。宇和島の鯛めしは、鯛がそのまま乗っているのではなく、鯛の刺身が入った汁に溶き卵を入れて、それをご飯にかける、卵かけご飯のようなものだった。宇和島の名産であるじゃこ天も食べることができた。
食後は僕の母方の祖母の家を目指して、津島に向かう。
僕はここの風景が大好きだった。潮風でボロボロに朽ちた木々や建物の物寂しさ、海の雄大さ、時が止まったように静かで水の音しかしない。海水浴場とは違い、近くに民家があり、それもボロいものが多い。中にはピンクや水色のコンクリートやおしゃれなお家もあって、その差も物悲しさを強調させていた。
なんであったら僕は地元の風景より、こっちのほうが好きだ。記憶はないが、生まれた場所だからというのもあるだろうか。
母方の祖母は出掛けていて家にはいなかったので、しばらく恋人と歩く。すると、ご近所さんがいて、呼んでくれた。
母方の祖母は以前会ったときよりだいぶ老いていて、時間の重さが違うのだと言うことを思い知る。以前会ったのは大学に行く前なので、七年近く会っていなかった。腰の骨を折ってから、手押し車が必要不可欠になり、歯もほとんど抜け落ちていて、耳もだいぶ遠くなってしまった。
会話がなかなか通じないけれど、いっぱい当時のことを話してくれた。何度もごめんねといわれて、僕はどうしたものかとなやんでしまった。だってぼくは別に生まれのことで不幸だと思ったことなんてなかったから。むしろ記憶がまったくないから知りたいだけなのに、僕が母親に会いたがっているようになってしまって、でもそれを否定するのも違うし、なんだか僕抜きで感動のショーが行われているような気分になるのだ。
昨晩、アルバムを見ながら当時のことを話していた時にも思ったが、不思議と悪い気はしなかった。僕自身の記憶になくても、他の人の記憶にはあり、記録には残っている。僕はそのことにはとても感動していた。
あるときから写真が嫌いでまったく撮ってもらわなかったのを後悔した。僕が日記をつけたのは消えてしまう思い出をいつかまた思い出せるようにだった。写真はそれの最たるものだったのに。過去の自分を初めて恨んだかもしれない。僕は母方の祖母を見て、十年以上続いた写真嫌いを克服できた。
そして、もう一つ克服できたものがある。それは過去の自分や、地元、関わってきた人を敵だと思うことだ。僕はそうすることによってしか多感な時期を乗り越えられなかった。でも、写真を見て、話を聞いていると、僕は全然不幸なんかじゃなかった。しっかりと愛情を注がれていた。僕がそれを受け取る器がなかっただけだった。一部だけ成長した頭で、地元を鳥籠だと思い、外の世界に憧れ、籠の中に止まる人間を馬鹿にすることで、自分だけは特別だと思っていただけだった。
それに気づけたことでだいぶ心が軽くなった。思えばずっと捨てたがっていた。でもこれがなければ創作ができなくなるのではないのか、過去の自分を否定するようでもあって嫌だった。でも蓋を開ければ、僕が書くものは、温かいものだってある。暗い話の方が好きなのはあるけど、それでも陽だまりや木漏れ日のような温もりをどこか常に求めているところがある。
母方の祖母のおかげで母の連絡先をきくことができ、お礼を言って帰った。家族は多分怒るだろうから、母のことは言わないでいた。
母がいないという体験より、たくさんのことをくれた人たちを傷つけたくはなかったから。でもそんなふうに思えている自分が好きだなと思った。
そして母方の祖母の話で涙を流してくれた恋人のことももちろん好きだ。
たくさん写真を撮ろう。そして二つの故郷に何度でも帰ってこよう。たくさん話をしよう。いろいろを感じよう。いつかそれをまとめて振り返って、恥ずかしがったり、涙ぐんだりして、それを繰り返して陽だまりの中で死ねるのなら、これ以上の幸せはないなと思った。
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