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タイガーマスク

 「ちょっと、しばらく留守にする」
 まるで旅行に行く報告をするかのように、チャコちゃんは彼にさらりと告げた。

 チャコちゃんは彼より十ほど歳上で、二十歳はたちを少し出たばかりの彼は、仕事のイロハから酒の飲み方、果ては女性の口説き方まで、実に様々な事を彼女から教えられた。
 恋多き人で、彼が知る限りでも三年の間に五人の男性と代わる代わるに付き合ったのだから、恋人とは呼べない相手も含めれば本当はもっといたのかもしれない。

 男性と別れるたびにチャコちゃんは彼に酒のお供を命じる。
 呑んでいる間、チャコちゃんは別れた男の愚痴を言うでもなく、さりとて美しい思い出を語るでもなく「良い男になりたかったら、首から上は少し熱めで、首から下は気持ちぬるめな男になりいよ」と彼に言い、決まって「タイガーマスクみたいなんが良いんよ」と続ける。
 分かったような分からないようなその決まり文句に、彼はいつも曖昧に頷いて、無理矢理に注がれる杯を空ける。
 杯を持つ腕の肘を、肩よりも少し上にあげてあおる仕草に「おっ、男らしいやん」とチャコちゃんが喜んだから、あれから二十年たった今も、彼はそうやって酒を呷っている。

 酒とサザンオールスターズをこよなく愛し、怒りっぽく危なっかしい性格で回りをひやひやさせた。天邪鬼の泣き上戸で、どこか幼なさの残るその顔立ちは周囲にいた多くの男性を魅力した。
 かくいう彼も周囲の男たちと同様、チャコちゃんに淡い恋心を抱いてはいたが、その思いは厳重に箱に入れて、誰にも見られないよう胸の内へと仕舞い込んでいた。
 時々、その箱を開けてひとしきり眺めてから、『誰か一人に縛られるのはチャコちゃんには似合わないから』と、また箱を閉じて仕舞い込んだ。



 「どっか行くと?」
 尋ねる彼にチャコちゃんは「風邪ひいたっちゃんね」と笑った。
 けれど、性質たちの悪い風邪をひいたチャコちゃんが、再び彼と一緒に働くことはなかった。


 「チャコちゃんのお見舞いに行こうか」
 いつもみんなにあれこれと気を配ってくれるカズエさんが、ある時、言った。
 チャコちゃんのことだから、自分が弱っている姿なんて男性には見られたくないだろうと、彼は話の輪を抜ける。
 帰り道、ぼんやりと煙草を吸っていると、カズエさんが「『あいつ、一回も顔見せやせん』って怒っとったよ」と彼の背中に言いながら横をすり抜けていった。
 自転車のベルをチリンチリンと二度鳴らして。
 翌日、彼は雑貨屋を巡ってお目当てのものを買うと、僕もお見舞いに行きますとカズエさんに連絡をした。

 九州がんセンター。
 性質の悪い風邪をひいてしまったチャコちゃんは、この病院に入院していた。
 まるで巨大なショッピングモールのようなその建物を見上げ、彼は少し緊張しながら入口に入った。

 それからのことを、彼はあまり覚えていない。
 それもそのはずで、病室に行く前にトイレに行った彼がチャコちゃんの前に現れることはなかったから。

 その代わり、真新しい覆面を被ったタイガーマスクが、カズエさん達の後ろに隠れるようにしてチャコちゃんの病室にいたと、カズエさんは言う。
 何も喋らず、かといって面白いジェスチャーをするでもなく、タイガーマスクはずっとチャコちゃんの方を見つめて立っていたという。
 マスクの下を、季節外れの汗でぐちゃぐちゃにしながら、ずっとずっと、黙って立っていたのだと。

 タイガーマスクが現れたその半月後、彼はカズエさん達と次のお見舞いの予定を立てていたのだけれど、結局それは、予定のままになった。




 時々彼は、新入社員の頃を思い出し、はにかんでしまう。

 「僕、何て呼んだらいいですか? やっぱり『先輩』ですかね、それとも普通に仲川さんですかね」
 「そうやねぇ……『エリーさん』は畏れ多いから『チャコちゃん』でいいかな」
 「何すか? サザンすか?」

 今度会う時があったら『エリーさん』と呼んでみようと、彼は決めているという。



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