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「最後の晩餐」のLGBTQをテーマにしたパロディが、キリスト教徒から冒涜的とみなされ世界中で非難と個人の信仰について


パリオリンピックが開幕しましたが、ひどい演出の開会式でしたね。こんな始まり方って・・・
あまり見たくはないですが、記録のために貼っておきます。というのも、ここからいろいろ個人的に思うことがあり、まとめてみました。

これは最後の晩餐のパロディなのだそう。言われないとよくわかりませんでしたが。これがキリスト教徒から冒涜的とみなされ、世界中から非難殺到。

結局、キリスト教団体だけではなく、スポンサー企業等からも非難殺到で、IOCが前代未聞の謝罪することに。

という流れになっているようです。これらのことから思ったこと、宗教と信仰(心)について、あくまでも個人的な思いとして2つの点から書いてみたいと思います。

まずいったいこれは何を見せられているのか?何が露呈しているのか?について。こちらのノートではずっと藤原直哉先生の見解を記録していますが、先生の見解では、
「もうとっくにDSと呼ばれる人々の中枢は始末されていて、あとは社会が急激にひっくり返ると、人々がついてこれずカオス化してしまうため、今は社会の変化をゆっくり皆が受け入れられるよう、いかに奴らが悪いことをしてきているのかを映画として見させられている」とのこと。

そのため、最近は小児性愛とか、過剰なLGBTQとか、気色悪いものを多く見せられるのも、DS側がこれまで陰で何をしてきたのか、どういう奴らだったのかということを、知らしめている、彼らの側からすると「晒されている」のだということ。そもそもIOCなどはガッツリあちらの組織なので、もうまともなIOCなどなく、むしろ破綻、解散に追い込まれて当然の組織であることを世界に知らしめるために、あんなことを大々的にやらされているのだろうなと思います。そして、結局、謝罪をさせられる。つまり目的は世界中の人々に「これまでの悪事を謝罪させること」だと思います。

なぜフランスのオリンピックなのに、開会式にレディ・ガガが事前の録画したもので登場し、セリーヌ・ディオンが歌うのか?おそらくフランス人はとっくに目覚めていて、オリンピックの開会式など出ないのでしょう。(個人的見解)

そしてもう1つ。今回のパフォーマンスを「キリスト教に対する侮辱」と捉えることについて。もちろんそういう意図で行われ、世界中の信徒の怒りを起こさせ、先に書いた通り、IOCに対する失望と非難を生じさせる狙いがあったのだと思います。そして人々が怒りを生じさせて当然だと思います。

一方でまた別な見方をしようと思います。まずキリスト教組織(とその組織が作り上げた聖書、イエス像等文化も含む)と、おそらくは人として存在したであろうイエス・キリストとを別のものと捉えることとします。果たしてイエス・キリストは、本当にこの2000年間キリスト教宗教団体が行ってきたことを望んでいただろうか?イエスが伝えようとしたことはこういうことだったのだろうか?

世界史における十字軍、異教徒への弾圧、異端者への迫害、殺戮、拷問、魔女狩り、新旧キリスト教徒の宗教戦争、アジア、アフリカ、南米、北米への植民地政策、原住民の虐殺、人身売買、奴隷支配、そして闇で行われてきた様々な悪事、キリスト教の組織が関与して、この2000年の間にどれだけ多くの戦争や人々の犠牲があったことか。それをイエス・キリストの名のもとに行ってきたことが、どういうことなのか。仮に組織は満足だったとしても、イエス個人をさんざん侮辱し、汚してきたのではないかとふと思ったのでした。それは期間の長さ、事の重大さにおいてIOCによる侮辱の比ではありません。

このことに関して念のためお伝えしておくと、これは個々の信者の方の問題ではありません。イエスを個人として考えたとき、彼が伝えようとしたことは素晴らしいことであり、真実だったと思います。それとは別にここで述べたいのは「イエス・キリストの名を用いて権力を行使し、搾取してきた組織」の問題です。歴史のあるところでローマ・カトリック教会は莫大な権力を得て、またのちに腐敗し別の勢力に乗っ取られ、そのままその勢力の下部組織として利用され、現代に至ります。歴史で習った通り、なぜ、カトリック宣教師の団体が、鉄砲を持って日本に来るのか?なぜキリスト教を布教するために、前文明や人々の生活を全滅させるのか?ということを考えると、その組織の本性(本質)がわかってきます。

つまりこの宗教組織が今日のDSの起源であり、常にその中枢にあったということです。宗教組織はそういうふうに歴史上利用されてきました。そしてこの中枢もすでに始末(制圧)されているでしょう。藤原先生も「バチカンの図書館が解放されたら、おおよその真実が明らかになるだろう」とおっしゃっています。その時が待ち遠しい限りです。

このオリンピック開会式の最後の晩餐のパロディ問題、キリスト教への冒涜という話から今につながる流れについて個人的なことを述べました。宗教にかかわる問題は語ること難しいですが、その安易に批判的に語ることが難しいという感情にさせるものに仕立て上げることで、アンタッチャブルにし、そこを隠れ蓑にするのが、奴らの狙いだったのだと思います。

しかし前記事で述べたようにこれからは「宗教不要」です。

もう個人が神と直接つながれる時代に入りました。キリスト教の外伝(正典ではない)「トマスの福音書」には「神の国はあなたがたの内にある」と書かれています。神は個人に内在する、つまり自分自身の中に神を感じ、自ら繋がっていくという発想が、ちゃんと初期のキリスト教にはあったのだと思います。(しかし権力者の道具と化した組織により、その考え方は都合が悪いため消されました)

誠実に生きる個人の中にイエスは生きているかもしれない。誠実に向き合う個人の中にお釈迦様は生きているかもしれない。人間の欲や思惑の入った宗教組織や経典にではなく、神聖な個人の内に自分にとっての神をそれぞれ復活させることが、これからの時代の信仰の在り方となるでしょう。今が内なる神の復活の時です。自分が神である、自分が源である、それが古代からの本来の人間の信仰なのだと思います。

おまけ

ちなみに日本人には宗教を盾に相手を全否定し全滅させるような発想はなく、神仏習合のように、何とか相容れないものを折り合いをつけようとするのです。日本は宗教的な意味においては乗っ取られることはありませんでした。(なぜ日本でクリスチャンが増えないかというお話を、田中英道先生も以前されていました)


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