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『13歳のハローワーク』に絶望した14歳のあの日

20年近く前、『13歳のハローワーク』(村上龍著)という本が話題になった。130万部を売り上げる大ベストセラーとなり、多くの学校でも採用されたそうだ。学校で読んだ記憶はないが、当時、いつの間にか我が家の本棚に紛れ込んでいた。

今、なぜか(?)本書が手元にあるので、初めて読んだときを振り返ってみたい。

世の中をあっと言わせたい。でもやりたいことがない中2病患者

当時の私は14歳。『デスノート』の影響をもろに受け、教室の隅で「いつか新世界の神になる(=世の中をあっと言わせてやる)」と心に誓う、深刻な中2病患者だった。

そんな中2病が『13歳のハローワーク』を読むとどうなるのか。結果は最悪だった。「やりたい仕事が一切ない」と絶望したのである。

なぜなら、世の中の大半の仕事は地味だからだ。夜神月のように社会を変えることなどできない。一見華やかそうな仕事でも同じことだ。「これじゃ新世界の神になれないじゃないか!」そんなことを本気で思っていた。

『13歳のハローワーク』は、好きなことから仕事を探す構成になっている。好奇心こそが自分に向いている仕事を探すきっかけになるという、著者の考えがあるからだ。

向いている仕事なら、自分の能力を100%注ぎ込むことができ、充実感や誇りを得やすい。多少苦しくても乗り越えられるだろう。

しかし、好きなことから探したところで、出てくる職業はものすごく地味か、実現可能性が限りなくゼロに近いものばかりだ。

たとえば私は、「陰キャ」な性格のくせに体育(特に球技)が好きだった。器械体操や水泳は苦手だったが、小さいころから野球やサッカーをやっていたおかげで、ボールを扱うのは得意になっていたからだ。

そこで「体育が好き」という章を開く。真っ先に出てくるのはスポーツ選手。いや、なれるわけがない。
スポーツライターやスポーツクラブのインストラクターなども登場する。だがいかんせん地味すぎて、興味が湧かない。

では「社会」はどうだ。中学時代は、歴史も地理も公民も得意で、定期テストで学年トップを取ることもあった。これなら私の能力を生かせるはずだ。

「社会が好き」の章を見ると、実に多種多様な職業がある。地図制作者に遺跡発掘調査員、司法書士に広告マン、さらにはホストまで載っている。でも、やはり興味が湧かない。

じゃあ理科は?国語は?音楽は?やはり結果は同じ。好きなことや得意なことはあっても、具体的な職業名が出てくると途端に興味がなくなってしまう。

当時の私のような中坊が少なくないことを、おそらく著者はお見通しだったのだろう。最後の方で親切に「何も好きじゃない、何にも興味がないとがっかりした子のための特別編」なる章を用意している。

ここでは「戦争が好き」「武器・兵器が好き」「エッチなことが好き」など、一般に「好ましくない」とされている物事への好奇心をもとに、職業が紹介されている(今読み返すと、いかにも村上龍らしい)。

この章では、なぜ子供がこれらに興味を持つのか著者が分析を加えており、純粋に読み物として面白い。だが、当時の私にそんなことを楽しむ余裕はない。結局、この章を読んでも何も解決しなかった。

今思うと、社会経験も人生経験もほとんどない中学生が、職業を紹介する本を読んだだけで、やりたい仕事を見つけられるわけがない。どんな形であれ、社会に出て働いてみないと興味も適性もわからないからだ。

著者はそんなこと、百も承知だろう。実際に、向いていることは「探す」のではなく「出会う」ものであるとはっきり書いている。世の中にどんな仕事があるのか知るきっかけを示したうえで、向いている仕事に出会うには好奇心が不可欠だ、というのが本書の主題であり、それ以上の何かを強調しているわけではない。

衝撃を受けたコッポラのエピソード

話を当時に戻そう。本書に絶望しながらも、思わずのめり込んで読んだ箇所があった。職業紹介とは関係のない、(ところどころ挿入される)著者のエッセイだ。
特に著者が居合わせたという、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』の撮影エピソードは衝撃的だった。

ボートでジャングルの水辺を逃げるシーンで、針金で枝に固定した2羽の鳥が意図せず逆さ吊りになってしまう。いったん鳥を枝から外す必要があるが、鳥のいる樹にたどりつくには濁った水面を泳いでいかなければならない。
水面には寄生虫のような虫がうようよ漂っている。コッポラは誰か直せと叫ぶが、水に入りたくないから誰も動かない。ついに、しびれを切らしたコッポラが自ら水面に飛び込み、鳥を枝から離す。顔に水草と虫がべったりとはりついたまま「カメラを回せ!」と叫ぶコッポラ。「クレイジーだ」とつぶやく助監督。

今回約20年ぶりに読み返してみて、このエピソードの描写を非常にはっきりと覚えていることに驚いた。著者の文章力のおかげでもあるが、それ以上に、私自身に強く訴えかける何かが、このエピソードにはあった。

それは何か?少なくとも、映画監督という職業に惹かれたわけではない。映画は当時から多少観ていたし割と好きだったが、だからといって映画の世界に進もうとは全く考えていなかった。
では、コッポラという人物に惹かれたのか。それもあるかもしれないが、コッポラという固有名詞よりも、命を懸けて何かをつくる人間に惹かれたのだと思う。

映画、音楽、小説、絵画、建築、彫刻、批評などなど。手段や表現方法は何でもいい。自分の手で作品を生み出すことへの強い憧れがあったのかもしれない。その憧れは、たぶん今でもある。

どんなにすぐれた作品をつくったところで、世の中に与えられるインパクトなどほとんどない。中2病発症から20年近く経った今なら、そのくらいはわかる。

それよりも大事なのは、自分自身が納得できるものをつくる姿勢だろう。「社会的なインパクトがあるか」とか「売れるかどうか」というのは二の次で、今ここの作業や創作に没頭できるものこそ、「向いている仕事」のはずだ。

私の場合、それが「文章」なのかもしれないという予感が、ほんのかすかにある。だからこそ、時間を忘れてこんな誰も読まない文章を書いているのだろう(もっとも、この文章が「作品」だとはとても思えないのだが)。

ただ、「向いていること」を仕事にすると、生活がままならなくなることがしばしばある。「創作系」の仕事の場合は特に、実力と運に恵まれなければ、社会の底辺をさまよい続ける。

それを引き受ける覚悟が本当にあるのか、「向いていること」に没頭できるのか、正直いって心許ない。

14歳の中坊に絶望を与えた『13歳のハローワーク』は、20年近くの時を経て、こんなことを考えさせてしまう程度には、(底辺予備軍の)アラサー男の心に響いたようだ。

社会的なインパクトなど残せなくても、100人に1人、いや1,000人に1人でも、誰かの心に爪痕を残すことができたのなら、創作家としては大成功だ。少なくとも村上龍は、本書(のエッセイ)でそれをやってのけている。


【補足】
村上龍は、本書で作家という職業について「ほかに転身できない『最後の仕事』」と書いている。他の職業から作家になる人は大勢いるが、作家から他の職業にうつるパターンはほとんどないという(政治家に転身する作家はたまにいるが)。確かにその通りだろう。

作家の条件とはただ一つ、社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。伝える必要と価値のある情報を持っていて、もう残された生き方は作家しかない、そう思ったときに、作家になればいい。

『13歳のハローワーク p.39』

私は今、ふらふらとルビコン川を渡りかけているようだ。流されて溺れる前に、引き返すべきか。


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