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1cm

1cm。最も接戦だったG1レースでの1、2着馬の着差である。平成8年スプリンターズS。1番人気に推されたフラワーパークは、エイシンワシントンとの火の出るような追い比べをわずか1cmの差で制した。定規を手に取ってみてほしい。1200mを走って、たったこれだけの差で勝敗が決してしまったのだ。そして、この1cmの差を生んだのは、田原成貴騎手の見事な手綱捌きであった。

距離が短ければ短いレースであるほど、ひとつのミスが致命傷になる。たとえば、G1レースであるスプリンターズSにおいては、よほど馬場が悪くならない限り、1分7秒から8秒前半のタイムでの決着となる。そうすると、出遅れてしまったり、前が詰まってしまったり、コーナーで大外をブン回してしまったりすると、もう物理的に間に合わないということになる。過ちをどこかで挽回する時間や空間がないということだ。

それと同じ意味において、距離が短ければ短いレースであるほど、ほんのわずかな「技術」が勝敗を分けることもある。平成8年のスプリンターズSのわずか1cmは、エイシンワシントンに乗った熊沢重文騎手のミスが生んだわけではなく、フラワーパークを操った田原成貴騎手のハンドルワークに拠るところが大きい。

映像をぜひご覧いただきたいのだが、直線坂を登る前(残り200m)とゴール前数メートル時点で、田原成貴騎手は2度にわたって手綱を短く持ち替えている。直線坂を登る前(残り200m)は映像が途切れてしまって分かりにくいが、ゴール前数メートル時点で、もう一度さらに手綱を短く持ち替えているのが良く分かる。追い比べになった熊沢騎手の手綱の長さと比べてみて欲しい。その違いは一目瞭然だろう。

田原成貴騎手が魅せた「技術」とは、短く持ち替えた手綱を強く“引く”ということだ。“矢は弓を引いてこそ遠くまで飛ぶ”、“ゴムマリは一旦縮むからこそ大きく弾む”と田原成貴騎手は表現する。ゴール前のもうひと伸びを引き出すためには、手綱を押すのではなく引かなければならないという。そのためには、手綱をより短く持って、馬の噛むハミとの距離を詰めておかなければならない。

言うのは簡単だが、実戦で使うのは難しい。まして僅かな失敗が許されないG1レースの土壇場の追い比べで、一旦、手綱を強く引くことはどれだけ勇気が要ることか。普通なら、気持ちばかりが焦って、これでもかと手綱をしごき、ムチを振るって、前へ前へと馬を押すことに躍起になってしまうものだ。そういった気持ちを抑え、ゴールまでの残りの完歩数を確認しつつ、手綱を短く持ち替え、ハミの支点への当たりを強める。そして、強く引く。この“引き”が最後の1cmに繋がったのだ。

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