死と変化

断念

岡江久美子さんの追悼番組をテレビで見て、死について考える記事を書きたかったのだが、今の私には早過ぎたようだ。面白みもなければ取り止めもない生地になるのが明らかだったので、途中で書くのを諦めてしまった。私が死についてきちんと記事を書くのには人生3回分くらいの経験値が必要だ。今無理して書くことではなかったようだ。

ところで、スポーツでも人生哲学でもなんでもいいが、それまでと真逆の方向にいかなければならなくなった、もしくは真逆の方法を取らなければならなくなった経験はあるだろうか。

例えば部活でコーチから癖を指摘され、修正のために今までと反対方向に意識を向けなければならなかったり、引っ込み思案だった人が何かの弾みで委員会とか何かでリーダになってしまい、先頭で指揮を取らなければならなかったり。

今までの自分の延長線上からは明らかに外れた挑戦をする時、人は大体戸惑うし、居心地の悪さを感じることもある。自己啓発や意識高い系界隈だとそれは自分の殻を破るチャンスとかなんとかいうのだろうが(ここ偏見)、実際その問題に直面すると果たしてこの道が正しいのか迷う。今までのやり方に自分で別れを告げた人間なら前向きに取り組めるだろうが、何かしらの外力でそうなったのなら不満も言いたくなるだろうしなかなか前向きになれない。

しかもそれまでのやり方や状況である程度うまくいっていたなら尚更だ。何かを変えて失敗してしまえば、戻る場所も失ってしまうかもしれない。


抽象的だが、私も同じような状況に陥っている。今までのやり方である程度の成功体験も得てきたし、ぶっちゃけ心から変わらなければならないと思えていない部分もある。だが、私の場合は周りとの差別化のため、そして憧れの存在に少しでも近づくために変化が必要だ。

やらない後悔よりやる後悔などというが、それが本当かはわからない。今回の経験でその答えがわかるかもしれない。私は変化が常に善で、その場に留まること即ち悪だとは全く思わない。長い間そこにいて、一つのことをし続けることでしか出せない価値もきっとある。だが私は半分自分の意思で、半分は外力によって、変化することを選んだ。

外出自粛はもう1ヶ月くらい続くらしい。習慣でも聞く音楽のジャンルでもなんでもいいから、時間のあるこの時期に変化を体験してみるのも悪くない。その程度なら元に戻って魅力を再確認できるし、変化することを知ってあえて動かない選択肢を選ぶなら、それはそれで価値があることだと思うから。

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