反社会人コラム「フラットデザイン」
2013年11月4日発行 ロウドウジンVol.7 所収
かつてからその萌芽はあったものの、iOS7やWindows8の採用で途端に時代の最前線に躍り出てきたユーザインターフェース「フラットデザイン」。質感や立体感が失われた「のっぺり」としたデザインに首を傾げながらも、無駄な装飾が排除されたそれはシンプル・イズ・ベストを体現、まさに純日本風の侘び寂びの文化なのだと思い込む日々。そんなフラットデザインをテーマに、反社会人に競作いただいた。
小説 平面化する世界に向けて
心療内科の待合室でiPhoneをぷちぷちと操作する。待合室には私ひとり、診察室からは前の患者の泣いているらしき声がかすかに聞こえてくる。患者が泣くのは心療内科ではよくあることだ。ただ診察は長引きそうだなと思う。
iPhoneはフラットデザインが採用されたiOS7で、前は影やグラデーションで立体的に描かれていたアイコンが子供のイラストのようなシンプルなデザインに変わった。これがいいかはよくわからない。でも気にいらないから使わないなんて選択肢ないし慣れてしまえば同じだ。
そういえば、はじめてフラットデザインと聞いたとき村上隆の「スーパーフラット」展を思い出した。村上隆はとっくの昔にフラットというコンセプトを提示しているのに「フラットデザイン」なんて、今更感あるなって思ったんだった。
私は鬱の治療でここに通っている。といってももう二年くらい通院していて、今は症状が落ち着いているから月に一度薬をもらいに来るだけだ。鬱になりたての頃はイライラしたり不安になったりと気分の上下がすごくて大変だったけど、抗鬱剤と精神安定剤で私の感情はずいぶんフラットになった。今の私は本当の私なのだろうかと考えたこともあるけど、イライラしないで人に優しくできる自分は嫌いじゃあない。
病院の中ではケータイの電源を切るのがマナーなのかなと思う。でもiPhoneをいじるのは止められない。ツイッター廃人だから時間があるときはツイッターを覗かないと落ち着かない。
【デートで使えそうな小技】というツイートが表示されたので彼との先日のデートを思いだして苦々しい気持ちになった。あの日はなんだか調子が悪く、そわそわするから少し眠ろうと睡眠薬を飲んだら眠りすぎてしまった。結局私はデートに行けなくて、待ちぼうけを食わされた彼はすごく怒っていた。
彼はメンヘラ好きを自称しているくせに、実際には調子が悪いとただ寝ているだけの私に腹を立てる。自分はメンヘラに優しくできると思い込んでいるけどひどい勘違いだ。病気のことを知っているのだからもう少し寛容でもいいんじゃないかな。
別れたい? ふとそんな考えが浮かんで消える。
鬱で食欲がなくなり私はすいぶん痩せた。ちびで胸もお尻もぺったりとフラットで二十代後半とは思えない幼児体型だ。彼はそんな私の体型を気に入っている。本質はロリコンで子供っぽい人なんだよね。だけど彼の子供っぽい勘違いを利用している私も、彼との関係に依存している。
「はあ」と小さくため息をつく。フラットデザインのことを考えていたからってフラットフラットってなんか可笑しい。感情も体型もフラットな私は、だからつまり。
「私はとっくにフラットデザインなんだよね」
……ひとり言を言って、ふ、と笑った。待合室に流れるヒーリングミュージックがひとり言をかき消す。前の人の診察はまだ終わりそうにない。
著者プロフィール
@itoh_torico (伊藤鳥子) 放浪プログラマ、ときどき同人小説家。絶対移動中というサークルで同人文芸雑誌を発行している。
無趣味のフラットデザイン
人生を彩る要素の1つ、趣味。辞書で趣味を引くと、人間が自由時間に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄らその対象のこと、とあります。
なるほど、サイクリングも趣味、旅に出るのも趣味、絵を描いたり写真撮影したりアニメ鑑賞したりアニソン聞いたりカラオケでアニソン熱唱したり艦これに時間を吸われるのも趣味でありましょう。おおよそ趣味に入る事柄が多すぎるため、余暇さえ存在すれば趣味も存在するように思える。
さて、このコラムの結論に至る前に、少し寄り道をします。
何かを理解するとき、その理解には深度がある。たとえば、大抵の人は知っているガンダム、あなたはどれだけ理解していますか?え?おまえはどんだけ理解してるって?カッコイイロボットがギュイーンババーンと敵をやっつけるアニメでしょう。え、ふざけるな?地球のエリートに虐げられたスペースノイドが……魂を重力に引かれた人間は……ガルマはなぜ死んだ!?、、うるさい、黙れこの腐れ坊やがっ。はい、私が持つガンダムへの理解深度は極めて浅いですね。一説によりますと、ガンダムは過去の戦争をモチーフにしてリアルで広大な政治背景の中にアムロとアムロを取り巻く仲間たちの活躍という極めて小さいスケールの話を切り出しているため、物語に厚みがあって考察が大好きなその筋の方々から絶大な支持を得たとか得ないとか。
そう、物事を理解するためには知識だけでなく考察が必要です。知って考えて議論して結論を出して楽しむ。これは自然科学の研究手法にもまったく当てはまるプロセスです。但し、かなりのやる気と時間と労力を要すると考えられます。
話を戻しましょう。趣味は多義に渡るし、その楽しみ方も自由ですが、ここでは趣味を楽しむ物差しとして理解の深度を議論に加えたいと思います。趣味深度とでも申しましょうか。先に断っておきますが、趣味深度の深い浅いに善し悪しをつけるわけではありません。いずれを選択しても人生が豊かになると思っているのです。
私の三十余年の人生において、最も趣味深度の深いと思うクラスターはガンオタでもプリキュアオタでもなく腐女子です。率直に申しますと、腐女子の方々は私の知っているどんな研究者よりも深く腐かく考察しています。私の観測眼によると彼女たちが棲まう腐海に底などありません。様々に組み合わせ無限のストーリーを創造する彼女たちのいかにたくましいことか。趣味によって得られる快楽を極めんとする腐女子の存在は私に多大な衝撃を与えました。
一方で、私は腐女子の方々とは対極にいて、趣味深度は極めて浅くあろうと努めています。私の能力からすると、趣味の世界に深く深くダイブしてしまったら最後、人生そのものが趣味に侵略されてしまう。おまんまの食い上げです。仕事に対してそれなりに前向きにありたい、でも結構疲れる、休日は休息しないと身が持たない、じゃあ体力を回復しつつ楽しめる趣味の深度はどれほどか?たまに旅行したり、ちょいとサイクリングして写真撮ったり、飲み会やったり、各四半期に数十タイトルも放送されるアニメをボケっと鑑賞したり、アニソンをだらりと聞いたり、たまに徹カラでアニソン絶唱したり艦これに時間を吸われたりする、ちょっとした知識のみで考察や議論などしない、極めて浅い趣味を複数持つことこそが私にとってちょうどいいのです。
極めて浅い深度の趣味を多数持つ、ほとんど無趣味であることが人生のオアシスである(そんな人がそれなりにいると信じて)、これを「無趣味のフラットデザイン」と定義しましょう。そして、それは現代の多岐多様大量なコンテンツ群の出現とその浪費によって成り立っているのです。
このコラムは現代文化の繁栄に潜む虚無、そして人類の衰退とハッテンへと続くのですが、字数制限と時間制限によりここまで。俺たちの戦いはこれからだ!(終
著者プロフィール
@r_about (適当) 性格や趣味に対する姿勢:適当。仕事に対する姿勢:適当。適当という言葉には良い意味と悪い意味があり、それを自在に使い分けることで人生を楽しんでおります。
人生
「フラットデザイン」とは、(それまでのデザインがSkeuomorphismとして対比されるように)物理世界に範をとらず、物理世界の軛からのがれ、ディスプレイの上で自由になることをめざした設計といえる。これによるおもな結果、その特徴:
1.陰影が排されて起伏がないこと。フラットデザインを「フラット」と
呼ばしめた由来
2.タイポグラフィの役割が強調されること。言葉によって意図を伝える
ことを怖じない
本稿ではフラットデザインを上記の観点から眺め、「人生におけるフラットデザイン」について考察する。さらには、いまだやってくることのないシンギュラリティをそれでも呆けて待つあなたがこの先生きのこるには、なんて人生の指針を求める読者への提言となることさえ目指す。
そんなわけで「人生におけるフラットデザイン」という愚にもつかないアナロジーで人生を考えてみようのコーナーがはじまったわけで、さっそくこれら二つの特徴をそのまま人生に適用してみたい。すなわち、まずは「起伏のない人生について」。「起伏がない=つまらない」と思われがちなこの「起伏のない人生」という言葉だけれど……というか、そんなことをいえば「なにが思われがちか、めったに使われる言葉ではなかろう」という謗りをまぬかれえないけれど、ともあれ印象としてはつまらなそうにみえる「起伏のない人生」。しかしもちろん天下のフラットデザインであるからして、実態はそう単純なものであろうはずがない。フラットデザインなるものをいちどでも目にしたことがある読者諸賢にとってはいわずもがなであろうが、起伏がないからメリハリもないだなんてそんなはずもなく、むしろその正反対、立体を模さないからこそ起伏がないからこそ配色とタイポグラフィを大胆にはたらかせることが可能になり、これまでのデザインでは実現しえなかったメリハリを効かせられるようになった……ということになっている。「起伏がない」というフレーズから連想されるのは女体の神秘であるというクソオタ諸賢の人生にはたして起伏はあっただろうか。なかったんじゃないかな。きっとそうにちがいないよね……しかし、なかったからといって案ずることはない、いまやフラットデザインの時代である。そんなキミでもYAT安心! 起伏なんてなくたって、メリハリをつける方法はあるというわけだ。色をたくさんアレしてコレして……というのは性的な意味でとらえていただいてもかまわないし、もうすこし抽象的に、塗りかえるという言葉を連想していただいてもかまわない。人生の平野あるいは山脈、渓谷、そういった地平の連続性のなかに日々の泡が浮かんでは消えるのではなく、たとえば明度などの共通点がありつつもまったく色相のことなる色が抽象化された人生平面のなかに劃然とあらわれる、そういった日々の送りかたということになる。あなたの身近にあったはずのもの、あるいはどこかで知ったようなものをこの平面のなかでつくりだそうとすれば、そこには当然陰翳なるものが生まれてくるであろうし、あなたはそれを礼讃しはじめるにちがいないのだけれど、さりとてそこに自由はない。起伏のない人生には、これまで考ええなかったメリハリがあり、自由が生まれる……可能性がある。
さて、色ときたらばもうひとつ、文字の話、タイポグラフィが強調されるという特徴について。これだってやはり、現実を模すことがなくなった、つまり今こうしてぼくがしゃべっているようにアナロジーによってなにかを伝達するのをやめてしまうことからの必然的な帰結だ。ぼくたちはどうやって人生を記述しあるいは伝達すればよいのだろうか、なにをもって人生を設計するための礎石とすればよいのだろうか。その答えこそが文字列そのものなんだ……というのが「人生におけるフラットデザイン」の教えるところである。文字列を平面のうえにスタイリッシュに現出させたならばそれは妥協のないスタイリッシュそのものであり、かつ設計者の意図だって下品なほど直接に伝える……伝えようとすることができる。たしかにかっこ悪く思えるかもしれない。なにか符丁のようなもの、類推で感じとってもらえることがイッツアフォーダンス……とは違うか、まあ、感じとってもらえることがほんとうだろうと思っていたほのめかし予備軍にとっては具合のわるいことに、フラットデザインを透徹する人間たちにとってのものごとを伝える手段は言葉にかぎられてしまうのだ。文字列とその配置のことを信じざるを得ないのである。もちろん、ただ言葉にしたところで伝わるとは限らないなんてことをぼくたちは身をもって体験しているところであるが……つまり、この文章を読んでみてもなにも伝ってこないから言葉は無力であると早合点するかもしれないけれど、いやいやそうではない、それはこの文章そのものがけっきょくのところアナロジーでしかなく直接的な指示の文字列ではないからという理由によるもの、だいたい人生に深淵などというものがないことはもはや自明であるからして、まさにこの言葉は……いや、ともかくもうすこしぼくたちも、人生において、直接的な文字列による指示のもつ力を信じてみてもよいのではないだろうかという話だ。それではうまく人生がデザインできないじゃないかということになったらば、そこは努力するしかないのでしょう。見つけましょう。なにを? もちろん海と溶けあう太陽などではなくとりあえず言葉をうまく配置する術を学ばなければならないということ。そして実はここに、隠されたひとつの利点がある。それは永遠……というのはさすがにないけれど、なにかを模すよりも、けっきょくのところべつの文化圏、ほかの時代にも訴求しやすいといんじゃないだろうかということだ。きっとそうにちがいない。これだけ細分化した世界において溶けあうことのないべつべつの太陽のもとに人生を送るぼくとあなたはもはやなにかのアナロジーでは意図を伝えあうことができない。唯一信頼に足るのはあられもない言葉の列だけだ。
そんなわけで本稿において行き着いた(こととみなす)ところとは、色を秩序立てながら大胆にアレンジして、必要に応じて直接的な言葉を配置しましょうという場所なわけだけれど、そもそもどうしてこのような面倒なことをしなければならなくなったかといえば、アナロジーをとらない、なにかを模さないということがその根底にあったからであって、さてそこで、基本的な疑問をこれまでスルーしていたことに気がつく。なぜ模さないのだろうか? 類推は理解にとっての近道であることはあきらかであるのに、どうして極端な抽象化・単純化を行うのだろうか?
それはひとつには、広範な人に伝わりにくいから。フロッピーディスクなんてもうだれも使っていないだなんて世代の話、これは人生にとっても同様である。多様化しました多様化しましたと猫も杓子も叫ぶ時代、模したもともとのものを知っていることのほうが珍しくなっていくのであれば、人生設計においてもやはり同じ、交わらなければならない人間の思考はばらばらになっている現実において人生をうまく取りまわしていくための処世術として求められているのがフラットデザインというわけだ。そしてあるいは、集中力を削がれてしまうるから。なにかを模して情報量が増えることは単純に豊かななにものかを意味するわけではなく、ほんとうに伝えたいこと、ユーザーにやらせたいこと、人生においてほんとうにやりたいことへの動線を、視線を曇らせてしまう。そしてなにより、結局は自由を求めたから。アナロジーは制約でもあるということを知れば自然に人生はフラットデザインに向かっていかざるをえない。自由というものは恐しいものでもあるのだけれど、幸か不幸か自由のもとに自らの幸福に責任をとらなければならない時代になってきているらしい。悲しむべき強さ!
記述的で切り立った平面を拮抗させ発展させる、コミュニケーション大好きインターネットネイティブとして生きること、それはフラットデザインの人生というもののひとつのかたちと言えなくもなく……ぼくより若い世代の彼らにたいして、人生をなにかに模してこうして喋ることももうできない、なにもないところから模索していかなければならないという話になるのだから、本稿の意義はここにおいて、いや、そのはじまりから消失していたということになる。
著者プロフィール
@murashit (むらしっと) インターネットになりインターネットとして文章を書きそして死ぬことによってインターネットを殺すのが目下の目標です。
★反社会人コラムでは寄稿者を募集しています。我こそは!と思う反社会人のみなさん、ご連絡お待ちしております。