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復興×ユートピア×反社会人

2011年6月12日発行 ロウドウジンVol.2 所収

 震災という自然の驚異の前においては人間などちっぽけな存在にすぎない。そんなことは津波に飲み込まれる街の映像を目にするまでもなく明らかだ。しかし我々はそんな簡単なことを忘れて生きていた。いや忘れていたのではない。頭の隅に追いやって考えないようにしていただけだ。

 人間を取り巻く環境が変化すること、それは否が応にでも人間自体に影響する。外環境は我々の生活のもっとも基礎にあるがゆえに想いを馳せる必要すらなくなっていた。それが崩壊したのだ。いわばゲーム盤のルールが書き換わったのだ。いままでのやり方が通用しない。お腹がすいても食べ物は存在しないし、家に帰っても物理的に家がない。正真正銘の家なき子である。同情するなら金をくれ。しかしその金とて何の役にも立たないただの紙切れと化した世界。まずそのような世界において最低限の生活基盤を取り戻すことが必要である。内閣不信任案を出している暇などないのだ。

 最低限の生活をどのように定義するか。人間が生存するために必要な三大要素「衣食住」は当然として、現代において無意識のうちに享受している電気、ガス、水道といったインフラストラクチャもそうだろう。復興に向けてなにができるのだろうか。またどのような変化が我々に生じるのだろうか。

 本格的な被災においては、生活基盤の崩壊が最大の問題になる。衣食住を失ったとき、最後のセーフティネットともいえる国に頼らざるをえない。そのような状況下では万人が好き勝手に行動していてはなにもできない。社会人は社会人的に振舞うだけではいけないし、反社会人も反社会人的に振舞うだけではいけないのだ。具体的な事例をみていこう。

 自宅が流出し「住」を失ったひとびとを受け入れるのは避難所という共同体である。そこでは食料や必要物資を他人と分け合う必要がある。反社会人がこれまでのような反社会人的な空気を読まない行動をしていたら、他人の生命を脅かす可能性すらある。これまでのような反社会人的な行動は明確な他傷行為になってしまうのだ。だから「あえて」社会人的に振舞う必要がある。また「震災」という共通の話題を手に入れ、それまで不必要だと思っていた雑談にも花が咲くことだろう。

 また生命の危険といえば、社会人の特徴として「己の死に対する想像力が貧困」という点がある。これは相対的な問題でもあり、反社会人の死に対するセンサが敏感すぎるというのも事実だろう。しかし会社というビッグマザーの庇護下にある社会人は視野狭窄に陥っているのが常であり、すべての生命あるものがすべて死に、自分もまたその一員であることを忘却している。それが震災によるリアルな死の可能性に触れることで、人生に対する疑念を生じさせる。いわば社会人が反社会人的な思考を要求されるのだ。

 このように社会人と反社会人は、震災によって互いに歩み寄るような傾向をみせる。これが復興の波によってどのような変化を遂げるのだろうか。

コラム 会社が流出……。どうなる?
 社会人/反社会人という区分は会社の存在あってのものである。社会人とりわけ「社畜」と呼ばれるような人種は会社にそのすべてを依存しているし、反社会人もまた反面教師的に会社との相対的な関係性の中においてしか存在できない。震災によって会社がなくなるとき、社会人/反社会人を規定していた基盤がなくなるのである。すなわち社会人も反社会人もいわゆる「ニート」に酷似した存在になると考えられる。しかし会社がなくなるといっても、世の中のすべての会社がなくなることは地球が滅亡でもしない限り、ほとんど訪れない。一部の「洗練された」社会人を除けば、一般的に会社は交換可能である。新しい会社をみつけ、再就職すれば良いのだ。それは震災の復興の問題ではなく、ニートの社会復帰や脱ひきこもりの領域だ。そんなものは自称専門家に任せておけば良い。怒鳴りつけなだめすかし「部屋」から引きずり出してくれることだろう。
コラム 震災モデルの把握
 モデル図(下)をみていただくとおわかりになるように、震災によって社会人と反社会人はそのどちらとも決定できない不確定な存在になった。いわば量子論的な重ねあわせの状態である。いまの被災者はたとえるならばシュレディンガーの猫なのだ。箱を開けるまで社会人と反社会人は確率的に存在し、観測によって初めて決定される。ここでいう「箱を開ける」というのがずばり復興である。かつての社会人性/反社会人性は一度リセットされ、新しく社会人/反社会人が誕生するのだ。
 しかし一般的に考えれば想像がつくように、震災の記憶が薄まり外環境が復興の兆しをみせるにしたがって、元来の社会人性/反社会人性が揺り戻されてくるだろう。震災前の社会人は復興後も社会人であるし、反社会人は反社会人に戻るというのが自然だ。だからといって運命は固定化されているわけではない。犯罪者の子どもが必ず犯罪者になるわけではないように、社会人が反社会人になったり、その逆もあったりするのだ。

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 震災によって現在は社会人と反社会人の重ねあわせの状態にある。すなわち量子力学的なアプローチ、いわゆる場の問題に還元することができる。現代における場とは社会基盤でありその上のルールであり、いま流行の単語でいうところの「アーキテクチャ」である。つまり復興とはアーキテクチャをどのように再設計するか、という問題として解釈できる。

 ローレンス・レッシグによると人間の行動を制約するものとして法律、規範、市場、アーキテクチャがあり、その中でも従来の法律、規範、市場といった手法にくわえてアーキテクチャという新しい仕掛けによる環境管理型の……云々。

 要するに現代社会においては反社会人は社会人からの白い目を一身に浴びながら生きている。しかし本来的には反社会人というのも社会人のライフスタイルの一形態に過ぎず、白眼視される謂れはない。これはマスメディアによるオタクバッシングなどと重ね合わせると理解しやすいだろう。震災からの復興、すなわちアーキテクチャの再構築において、われわれ反社会人サークルとしては社会人も反社会人も自由気侭に選択可能な世界を創り上げることが可能だと考えているのだ。

Q

 ではそのような社会を成立させるためのアーキテクチャの具体像はどのようなものになるのか。アーキテクチャは人間の快楽原則を後押しする形で、誰もが自発的に一定の行動を取るようにすることができるのである。有名な例だと、ファストフード店の冷房の温度設定は少し低めになっており、それによってなんとなく長居しづらくなっている。これは人間の不快によって行動を制限するパターンだが、その応用で反社会人という修羅の道にひとびとが容易に踏み出すことができる社会をつくろうというのだ。

 反社会人が白眼視されるのは社会人あるいは社畜というスタイルが社会におけるひとつの正解であることが大きい。つまり社会人というのは入試問題のような模範解答のある問題なのだ。一方、反社会人サークルの活動内容をみていてもおわかりになる通り、反社会人というものには正解が存在しない。きわめて理念的で形而上学的な問いである。解答の定まらない問題は排斥され、批判の対象になる。

 つまりこのような問題において重要になるのは、いかに具体的なシチュエーションとして物事を捉えていくかということである。社会人と反社会人が互いに互いの存在に気づくとすらなく、その共通要素である「人間」という一点のみにおいて接続可能な社会を目標にするのならば、アーキテクチャによって反社会人と社会人がいつの間にか完全に分断されるような社会である。ここでいう「分断」は比喩であり、物理的に両者を隔離しようというわけではない。反社会人が社会人をみても社会人だと感じない、社会人が反社会人をみても反社会人だと感じない。そんな社会を目標としよう。

A アーキテクチャの設計例

 社会人は頻繁にトイレに行く反社会人をみて、口の端で嫌な笑みを浮かべる。しかし頻尿のひとが増えた社会ならば、頻尿の社会人と反社会人の見分けがつかなくなる。ではどのようにしてそのような環境を作り出すのか。ひとつの解答は水道水に虫歯対策としてフッ素を混ぜるのだ。これはアメリカやオーストラリアでは実際に広く行われている対策であり、それ自体には一定の効果はあると言われている。その際に一般的に使用されているヘキサフルオロケイ酸ナトリウム等のかわりに、意外にやフッ化物を多く含んでいる茶(緑茶)を用いると良い。ご存知のように緑茶はカフェインを含むため利尿作用があるからだ。

 また反社会人の側からすると上司からの「どう? 一杯?」の誘いを断りきれない社会人の立ち振る舞いをみてげんなりすることがある。これもアーキテクチャの再設計で回避可能だ。どのようにするのか。ひとつの解答は水道水に虫歯対策としてフッ素を混ぜるのだ。どこかで聞いた話であるが、フッ素源として使用する物質が異なる。ここではビールを採用したい。ビールに含まれるフッ素量は緑茶とほぼ同量だといわれている。水道水にビールを混ぜることで、上司は常に軽い酩酊状態を維持することができるだろう。すなわち上司は部下を飲酒に誘うことはなくなり、反社会人は社会人的な行動をみる機会が少なくなるのである。

 このような思考実験はあくまでもひとつの例にすぎない。ただし、いったん震災によって基盤を失った社会が新たなアーキテクチャを必要とするときにおいて、起こりうるひとつのユートピアの可能性であるのは間違いない。

 震災が明らかにしたのは社会人と反社会人は共存可能だという世界の真実だった。復興においてその観点を失わなければ、世界は必ずしや良い方向に進んでいくことだろう。辛い出来事ほど乗り越えたときの喜びは大きい。それは単なる相対的な問題ではあるが、すでに現実は「辛い出来事」なのだ。放射能に汚染されたこの日本でミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ。友達なんだ。社会人と反社会人をひっくるめた人間の底力に期待したい。

 がんばれ、日本。

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