20年目のカプリコ忌

3月3日はカプリコ忌である。誰が決めたわけでもない。私が決めた。

2002年の3月3日。自称「青春の巨匠」K.Kがこの世を去った。まだ30歳の若さだった。

鹿児島県国分市に生まれたKと出会ったのは2度目に入った大学だった。同じ学部なので出会ったのは多分オリエンテーリングか英語の授業だろうが、残念ながら最初の出会いの記憶がない。気がついたらいつも一緒にいた。ウマが合ったとしか言いようがない。

前の大学は酒と女とテニスの話しか出来ない奴ばかりですぐに通わなくなったが、入り直した大学で最初に出会ったのがKだった。久しぶりに高校時代の友人のような知性を感じた。付属校から上がってきたようなひ弱な知性ではなく、挫折を乗り越えた力強さを兼ね備えていた。とにかく博覧強記。西洋史・日本史はもとより、政治からアイドルまで話題が幅広いのである。しかもしゃべりが過激で面白い。高校以来久しぶりに「コイツには勝てない」と思える人間と出会えた。Kともう1人、現在は国立大学の助教授になっているKとの出会いが私を大学に引き留めた。もし、彼らに出会わなければ私の大学4年間はずっとつまらなかっただろう。

私を将棋の世界に引き込んだのもKであった。家に遊びに来た時、将棋部だという話を聞いて「それでは一局」ということになった。別に腕自慢だったわけではないが、五連敗か六連敗してプライドをいたく傷つけられたので、その後は陰でいろいろ研究した上で部室にお邪魔しては指していたのだが、ようやく勝ち星を挙げた頃にはなし崩し的に部員になっていた。力は互角だったと思うが、対戦成績は相当負け越しているはずだ。相性というか、お互いに技を殺し合うような展開になって私の方が辛抱しきれなくなる将棋が多かったと記憶している。

将棋以外では麻雀もよくやった。おそらく私の生涯において最も多く対戦した相手になるだろう。誘えば語学だろうが専門だろうがお互いにぶっちぎって興じたものだ。手作りも出来たが、怖かったのはその恐ろしいまでのツキの太さだ。信じられないところを引き続けてアッという間に高い手で聴牌する。後ろで見ていてどうやっても敵わないと感じた。私の技巧を凝らした聴牌をよく1点で読み切られたことも忘れられない。七対子の地獄単騎といった絶対に読まれないはずの待ち牌を、リーチした瞬間に「コレなんじゃないの?」と何度カマをかけられたことか。他人の聴牌はそれほど当たらないのに私の聴牌だけはピタリピタリと当たる。こればかりは今でも不思議で仕方がない。

カラオケもKがライバルだった。お互い男にしては高い声を得意としていたのでよく一緒にカラオケに行った。洋楽が得意でジャーニー(スティーヴ・ペリー)の大ファンだった。カラオケでもジャーニーをよく唄い、モニタも見ずに唄い上げていた。サイモン&ガーファンクルやピーター・セテラも唄っていたと思う。洋楽に関しては全く敵わなかった。同じキーは出ても歌詞が出てこない。邦楽に関してはだいたい同じ趣味だった。声量は互角だが、やや歌い方が乱暴だったのでテクニックはこちらの方が上だったろう。同じレベルで技術論が語り合える希有な存在だった。私の中学からの親友と3人で池袋のパセラで唄ったのが最後となった。今でも軽々とジャーニーの「オープン・アームズ」を唄うKの姿が目に浮かぶ。あの時、自分のベスト・パフォーマンスを出せたことが唯一の救いだろう。

Kの書く部誌の原稿が毎回楽しみだった。下らない内容だが、自分には決して出せない味があるのだ。曲がりなりにも同人屋としてそれなりの修行をしてきた自負があったが、圧倒的な才能の前には何の役にも立たなかった。Kが授業中に内職してルーズリーフに書いてよこした原稿の方が、私が苦吟して書いた原稿より何倍も面白いのである。何とかしてその味を盗みたかったし、その文章を読み続けたかった。新し物好きのKのことだから、あの当時にBlogがあったらどんな面白い身辺雑記をものしていただろう。

「諸君!」や「正論」を愛読し、考え方は完全に産経系保守・右翼だった。鹿児島県出身ということもあって「地方の論理」が分かっていた。彼の影響を多大に受けて今の私があると言っても過言ではない。今でもKの足元にも及ばないと思う。

彼がまだ大学院にいる時に突然入院して、厚生省の特定疾患に指定されている治療不能の難病(クローン病)に罹っている、と本人の口から聞かされた。ただ、すぐ死ぬような病気ではない、とも聞いていたのでそれほど心配はしていなかった。

卒業後は専らメールで近況を伝えあった。実家に戻って親戚の仕事の手伝いをしつつ福岡の病院に通っていると聞いていた。最後に携帯で話したのは死ぬ前の年の秋頃だろうか。「病気のためにまともな就職は出来ないが、有力なコネがあるので市議会議員に打って出る。地盤を引き継げるので鉄板で当選できる」と豪語していた。選挙に出る元気があるのなら当分は死なないだろうとタカを括っていた。昔から政治に興味を持っていたので市議会議員はある意味天職だろうと思ったくらいだ。

訃報を聞いたのは亡くなって半年後。全くの寝耳に水だった。鹿児島在住の後輩がたまたまKの家に遊びに行って初めて知らされたそうだ。ステロイド治療が体に合わず病状が急変して亡くなったと後でご両親から伺った。同世代の死に直面したのはこれが初めてで、一番大切な人が最初に居なくなってしまった。

彼の墓は国分市の正福寺にある。1周忌の前にお墓参りに行こう、と私が提案して将棋部の先輩後輩併せて7人で鹿児島に行った。お寺の中の集合住宅のような墓所だった。墓参りの後、皆で追悼麻雀大会を行い、彼が乗り移ったのかツキにツイて私が圧勝した。

あれから19年、遠いこともあって墓参りには一度も行っていない。だが彼を忘れたことは一度もない。人は魂がこの世を離れただけでは死なない。完全に忘れ去られた時に死ぬのだ。

今年は入院中で食べられないが、退院したら大手を振って彼が好きだったいちごカプリコを食べつつ偲ぶことにしよう。

いちごカプリコは今年で誕生51周年である。


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