全てはここから

 姿見の鏡の前に、年の頃10代前半の少年が一人立っている。

 彼は鏡 の中にいる自分の姿に不安を感じていた。

 そして、顔をしかめると同時にその人物に、淡々とした口調で問いかける。

"何故、1年近くも経つのに僕は成長しないのだろう?”と。

 事の起こりを説明する前に、彼と彼と一緒に同居する人物の説明をしなくてはならない。

 彼等が生きる時代は、我々が今生きる時代よりも、ざっと3000年近く遡った古代中国は殷と呼ばれていた時代。

 民族間の小さな争いが絶えない中で、少年は生を受け、大切に育てられていた。

 だが、運命とは残酷なもので、少年が5歳になったある日、殷の兵士達によって、集落が奇襲攻撃を受けてしまう。

 突然の出来事に対処が遅れ、たちまち壊滅状態に陥った集落に、偶然か必然か、とある仙人が近くにいた馬に軽やかに飛び乗った。

 あちらこちらで立ちのぼる炎の中を逃げ惑う人々を、うまい具合に躱しながら、恐怖で[[rb:蹲> ウズクマ]]る少年まで近づき、瞬時に引き上げたかと思うと、その場から走り去っていく。

 あっという間の出来事で、今度は兵士達が身動き一つ取れなかった。

 以来、あれから5年近く少年と仙人は、近くの集落の人々の為の萬(ヨロズ)相談を請け負いながら、山奥でひっそりと暮らしているのである。

 少年の名は呂望 。

 とある集落の長の息子である。

 彼は俗にいう遊牧民族と言われている集団の中で、仕事や遊び、果ては人間関係に至るまで学ぶはずだった矢先、先の事件に遭遇してしまう。

 片や彼に救いの手を差し伸べた仙人の名は、雲水真人といい、当時は平地を旅しては集落に立ち寄り、様々な相談を受けて生活をしていた。

 そんな彼等が共に生活を始めて4年が経ったある寒い日、呂望は急に寒気を覚え、今でいうリビングに相当する部屋へと駆け込む。

 今までに風邪を引き、発熱したことはあったが、不思議と悪寒を覚える程の熱ではなかった為に、経験がない彼としてはかなり慌てていた。

 その部屋の片隅には、雲水が昔立ち寄ったとある集落の長に、“相談に乗ってもらったお礼”として手渡された、焦げ茶色の小さな箪笥がある。

 その箪笥は3段の引き出しから構成されており、この中の真ん中に雲水が大切に管理している薬が入っていた。

 呂望はその薬がとても貴重だと知ってはいたが、体が辛いのをどうにかしたい方が先に立ち、早くこの悪寒を止めるために、慌てて箪笥の引き出しを開けてはものをひっくり返しを繰り返す。

 そして、ようやく出てきたのは、何の変哲もないただの薄い紙に包まれた粉薬だった。

 薬を見つけ、“あった!”と子供ながらに安堵した声と共に顔を緩ませた呂望 。

 その包み紙を手にし、早速症状を軽くしようと、外にある水呑場へと足を向ける。

 彼の家からほんの10メートル程奥にある、その水呑場は石製で、1メートル四方の大きさのものであった。

 今でいうなら、台所のシンクが石製ということになる。

 ここは山からの恵みである小さな沢から引いて作っており、使用した食器を洗うのは勿論の事、食事や白湯を沸かす水や洗顔といった、生活に必要なあらゆる水を、一気に調達場所になっていた。

 それ故、雨不足で沢が枯れてしまった時には、想像以上に大変な目に遭う。

 そんな場所でも生きる為には必要不可欠な場所であり、また呂望にとっては叱られた時の逃げ場と化していた。

(沢から引いてきたのだし、今の季節は真冬だから、きっと想像以上に冷たいに違いない)

 呂望は、それほど太くない竹筒からチョロチョロと流れ出る水を見つめ、内心でそう呟く。

 そうでもしないと触る勇気が出ないからだ。

 彼は澄んだ水を溜めようと手にした木製の椀を恐る恐る竹筒の下に置く。

 そして、冷水からいつでも逃られるようにと腰を突き出し、両腕を思い切り伸ばした格好で身構えた。

 ひやりとするのを覚悟した呂望は、熱で震えているのかどうか分からない小さな手を、竹筒の上に置いて、水がスムーズに出るように軽く揺らしてみる。

(あれ?)

“思っていたよりも温かい”と感じた呂望は、驚いて目を丸くした。

 普段は師匠である雲水が全てやっていたので、想像していた通りとは違う少々温かな水が流れてきたことには、とても勉強になったと、改めて自然の力に感謝する。

 しかしながら、“この無様な格好を大好きな師匠に見られなくて良かった”と、胸を撫で下ろした呂望は、気を取り直して貴重な水をコップから溢れ出ないように見つめた。

 そして寸前のところで体の方へ引き寄せた彼は、まじまじと見つめたあと、左側にある矢張り石で出来た物を置く平たい場所にコップをそっと置く。

 チョロチョロと無機質な音をたてて流れ続ける水を無視し、呂望はズボンに大切に入れてあった例の包み紙を取り出した。

 それから急いで開いたかと思うと、粉薬を口の中に入れ、間髪入れず水で喉の奥まで流し込む。

“ゴクリ”と飲んだ音が、彼の心の中にあった不安を薬と共に一気に流してくれた。

 集落から帰ってきた雲水の口から、何処か冷静すぎる言葉を聞くまでは……

お仕舞い

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?