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ひとに言われたことを気にして、自分の出した判断に不安になってしまうのはどうして?

二つの智慧の目が今のはちべいには足りないのじゃ。
まずはひとに言われたことを気にしてしまうことについてじゃが、心が他人にコントロールされてはいないかのう?
そして自分でも心は他人にコントロールされやすく、自分でコントロールできないのが心だと思ってしまっていないかのう?
この考えに陥ってしまうのは、はちべいに智慧がないからなんじゃ。
では、これを智慧の目をもって観るとどうなるか。
他人には決して決めることができず、いつも自分で決められるのが自分の心というもんじゃ。
自分も他人の中にまでは入ることができないように、他人も自分の中にまでは入ることができないという簡単なことをついうっかり忘れてしまっているということじゃ。
よく、自分と他人の境界線なんて言葉があるじゃろ。あれじゃな。
感覚的には分かっているのだが、感情が入ると目が曇ってしまい正しく観ることが出来なくなって気持ちが不安定になってしまうんじゃ。
智慧の目をもってすれば、なんてことはないことなんじゃよ。
だって、何か暴力を振るわれたり、生命の危機に脅かされている訳じゃないんじゃろ。
安心して、自分で決めてほしいなぁ。
それから、出した判断に不安になってしまうということについてじゃ。
ようするにひとの目が気になって、どう思われているのか、どう評価されているのかを気にしてしまうということじゃな。
これを智慧の目で観るとどうなるかじゃ。
そもそも、他人に頼って承認してもらっているうちは絶えずその都度に他人の判断を必要とするため不安がつきまとうものだということを本当に理解していないんじゃ。
それからなぁ、自分で出した結論に間違いはないんじゃ。えっ、今そんなことはないと思ったじゃろう。
勘違いはあるが間違いはないんじゃ。勘違いならすぐに改めればいいじゃろう。
だから安心して自分で決めればいいものを、他人になんか頼るから、違ったときに他人にまた改めた判断を必要としたり、他人を恨むことになるんじゃ。
自分で判断すれば、途中に勘違いをやり直す学びはあっても間違いはないんじゃよ。
屁理屈に聞こえるかも知れんが、これが智慧の目というものじゃ。
自分以外に責任をもってものごとを決められる代わりはいないと覚悟を決めてやっていくのは、悪くはないじゃろう。
自分から不安の渦の中に入らずに、安心して自分の判断で進んでいってもらいたいもんじゃ。