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ひとが強くいられるのはどんなときなの ?

ひとは心で想い、それが行いとなるもんじゃ。
心がしっかりと自分の方を向き、行いが他人へ向かうとき(大切なひとのために動くとき)ひとはとても安定し、強くいられるんじゃ。
心がきょろきょろと他人の方を向き、行いが自分へ向かうとき(自分のことでいっぱいになったとき)ひとはとても不安定で弱いもんじゃ。
心が定まると意志となり、心が定まらないと気分となる。
楽観主義は強い意志によるもので、悲観主義は弱い気分によるものじゃ。
心を定めるとは自分で決めて覚悟することなのじゃ。
そんなことわかってるって?
そりゃ、小学生でもわかるわなぁ。
でもなぁ、わしでもなかなかできんのじゃ。
他人に何かを求め、心をゆだねているうちはだめじゃ。(他者承認)
自分に心をゆだね、しっかりとそれを行い、自分で自分を認めるのじゃ。(自己承認)
そして、もうひとつ大切なのが心を落ち着かせ、ものごとを正しく観ることじゃ。見ると観るはちがうんじゃ。ぼやっと眺めてもだめじゃぞ。
正しく観るとは、観たくないものを観ないことではないのじゃ。
相手の良いところも、そうでないところもそのまま受け入れて赦すことを想いながら、しっかりと観ないとだめじゃぞ。
相手のキズを理解して、人の心の動きを正しく、そのまま知ることじゃ。
ひとは理論を語り、感情で動くものじゃ。
ひとは正しく裁かれることを期待してはいないものじゃ。
ひとは愛をもって認めてもらうことを期待しているものじゃ。
ひとは正論より配慮を期待しているものじゃ。
ひとは冷たいものより温かいものを期待しているものじゃ。
ひとは努力するほど不安になるものじゃ。
ひとは経験するほど涙もろくなるものじゃ。
ひとは優しいからこそ迷うものじゃ。
ひとは好きだからこそ悩むものじゃ。
はちべいの目線は今、相手の目線になっているか?
決して裁かずにそういうものだと正しく観ることで、相手の弱さを知り
慈愛(遠くから目を細めて慈しみ、見守る愛情)という気持ちに自分がなることができたとき、自分の心は安定し強くいられるのかもしれないのぅ。
このことが、心を自分に向けて、行いを他人へ向けるということの一歩なのかもしれないのぅ。