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慈悲についておしえて

慈悲は本来、「茲心非心」この心、心にあらずと読むこともできるんじゃ。
自分の心を中心とするのではなく、相手の心を心として生きることじゃ。
自分の心には、どうしても嫌悪(いみ嫌う)や無関心などが宿るものじゃ。
ひとにおきることは、自分自身のもつ因(感情)と縁(できごとや他人)があって
結果となるんじゃ。
だから、自分が良くない感情をもち、それを行いとしたとき、他人もイライラしていたりするといさかいが結果としておこるわけじゃ。
でも、自分がイライラしていても相手が気にしなかったり、相手がイライラしていても自分が可哀そうなひとだなぁと相手にしなかったり、どちらかが良いものであったとき、良くない結果とはならないんじゃ。
相手の感情は相手のものなので、自分にどうすることもできないなぁ。
そこで大切になってくるのが、この慈悲という考え方じゃ。
縁に見る醜さ、冷たさは気づきなり。
己の小さな判断でものをはかるのは愚かなり。
慈悲の目で引いて見るは心穏やかなり。
縁を見てはならぬ、そのとき湧きおこる己の情を観よ。
相手の情は、決して肉体を通じて自分の中に入ってくるものではなく、それに反応している自分が自分の中に作っているものだということを自覚し、相手のせいにしないということじゃな。
ひとは所詮、情からしか醜さやいやらしさを知ることもできず、情からしか優しさ、温かさも知ることができないということじゃ。
だから、ひとにはこんな厄介な感情というものがあるんじゃよ。
正しさだけでは推し量ることができない、ひとの理不尽な心というものを感情というものを学ぶんじゃな。
はちべいも人間になったら、こんな厄介なものを抱えながら生きないとならんぞ。
しかし、人間をつづけているうちにそんな厄介なものが悪くないなぁと思える日も来るとおもうがなぁ。
慈悲の情(心)というものを自分のものにすることは、そう簡単なものではないがなぁ。
ただなぁ、その道を歩むものは、はちべいをおいてほかに代わるものはないんじゃよ。