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切り替えの速さと冷たさ

授業や研修のときには、受講している人のやる気を引き出し、協調的な雰囲気を作り出すような感じだから、端から見ればかなり、「人が好き」で「コミュニケーションをとるのがうまく」て、「思いやりがあり」、「やさしい」と思われていると思う。

しかし、内実は違う。先日、能力を見込んで仕事をお願いした人がギブアップした。そのとき、この人は私と一緒に対等に仕事をしていくのは無理なんだと、悟って、一瞬のうちに切り捨てた。目の前にいるのはもう同志候補ではない。もう同じ土俵にいないから、この人の能力をストレッチさせるような「育てる」仕事はもう頼まない。「いきものとして、種類が違う」という判断が下っている。

教育における眼の前にいる学習者には、基本的に敬意を払い、無限の伸び代を前提にして寄り添う。目の前にいる学習者がのびないのは教授者の責任だと思う。

なのに、自分が、一緒に働く人にここまで厳しいのはなぜだろうか。同志になれるかなれないか。同じ目的に向かえる人なのかどうか。「同志」とは目標を達成するために、互いに研ぎ澄まし合うような関係をつくれる。それは自分の弱点をさらされ向き合わざるを得ないことも多く、辛い。しかし、目標達成に必要な生き方だ。

その関係性を築けない人には、逆にやさしい。外見的には、思いやり深く接しているように見える。しかし、それは一種、「あきらめ」のあらわれでもある。その人なりの幸せな人生を歩めばいいのだ。深い思いやりをもった言葉がけをする裏には、完全にその人への同志としての諦めがある。


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