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千葉雅也、砂原庸介、田尻祐一郎、山田詠美、渡辺昭夫

『センスの哲学』 千葉雅也

「いかに鑑賞するか」が「いかに制作するか」になり、それがさらに「いかに生きるか」へとダイレクトに繋がる。整理や説明がうまいのもあるが、むしろアドバイスや教示が水際立ってうまい。跳ね回る様でいて、インストラクター的に寄り添いもする文体の妙。内容的によく準備され練り上げられているにもかかわらず、どこか即興演奏の手触りを残しているのが印象的だ(これは彼の小説にも言えること)。『夏目漱石論』といった蓮實の批評のたくらみと歴史的意義を簡潔に解説しつつリスペクトも示したうえで、そうしたフォーマリズムの徹底とは距離を取る、という旗幟鮮明な立場もよかった。

『戦後日本の宰相たち』 渡辺昭夫編

東久邇から竹下までの日本の首相を短い評伝形式で紹介する本。生い立ちから首相に上り詰めるまでの経歴、そして首相として残した業績や課題について、有名どころの学者が20〜40ページ程度でまとめてくれており、ひじょうに有益。御厨貴による田中角栄の評伝がいちばん面白かった。そのほか渡辺昭夫による吉田茂、猪木武徳による石橋湛山、北岡伸一による岸信介、中村隆英による池田勇人、高坂正堯による佐藤栄作などが順当に面白い。

『民主主義の条件』 砂原庸介

読む前に想像していたより、選挙についての記述が多い。噛み砕いて書かれているものの、扱っている内容はわりと難しいと思った。

『江戸の思想史』 田尻祐一郎

平易で網羅的。短いながら時代背景や個々の思想家の影響関係にまで言及されている。徂徠、宣長、篤胤といったビッグネームの業績に関する記述はもちろん面白かったが、第10章「国益の追求」が今回の収穫だったと思う。農本主義の放棄、海外拡大志向、武士支配への不信感といった問題意識が、カムチャツカに大日本を建設する、という何とも壮大な構想をさえ生み出していた。これには驚いたが、どこかですでに読んでいた気がしないでもない。苅部の本を読み返してみるか。渡辺浩、清水正之あたりも読まないといけない。

『せつない話』 山田詠美編

山田詠美によるアンソロジー。山口瞳、田辺聖子、八木義徳など、名前は知っていても読んでない作家の短編を読めた。村上龍の『ハワイアン・ラプソディ』は傑作『だいじょうぶ、マイフレンド』の原型というべき短編だ。テネシー・ウィリアムズも小説は始めて読んだのだけど、終盤になってだんだんタガが外れていくのが印象的だった。ぜんぜん雰囲気は違うけど、過剰さが臨界点を超えてしまってもうどうにも止まらない感じが、なんとなくチェスタトンの『木曜の男』を思わせた。

…雑記

三月と四月は忙しい。保育園が始まった。生まれてからまだ一年も経っていないのに、もう保育園に通うというのが、なんだか奇異に感じる。まだ床をころころ転がっているだけのこの子が保育園へ? そんなことが可能なのだろうか。

僕じしんが保育園に入れられたのは物心がついてからだった。泥団子を作ったり、駆けっこをしたり、絵を描いたり、歌を歌ったり、といった活動が保育園での時間の大部分を占めていた覚えがあり、だから保育園というのはそういう場所だと思っている。そのどれひとつしてまだ満足にできない我が子は、いったい保育園で何をするのか。わからない。先生の説明を聞いてもなんだかピンと来ない。でもまあ、できることをやるのだろう。

まだできないことだらけの、いかにもかよわい我が子ではあるが、それでも著しく成長し変化している。たまに数ヶ月まえの子どもの写真を振り返りみて、「うわっ、この頃とぜんぜんちがう!」と驚いたりする。そして「〇〇ちゃんも昔はこんな小さかったんだね」と言葉を解さない我が子に話しかける。

そのときふと、自分が一年未満の近い日々のことを「昔」と形容したことに戸惑いを感じる。「昔」という概念は単純な年月の長さではなくて、変化量の大きさにも依存しているのだろう。こどもの成長がやたらとはやいので、こどもの視点に立ってみると少し前のことでも「昔」と言ってしまう。

最近はまあそんな感じ。そしてこれはそうした日々のなかで僕が読んでいた本の記録だ。

金には困ってません。