見出し画像

網野善彦、井上義夫、那須耕介、富岡多恵子、朱喜哲

『日本の歴史をよみなおす (全)』 網野善彦

ごく少数の貴族や武士が圧倒的大多数の「農民」を支配していた、というような通俗的な日本社会像に対するオルタナティブな社会像の提示。人々はさまざまな生業に従事し、都市や港でそれぞれに交易していたし、権力の中枢を離れたところにまで金融が浸透しており、社会は複雑で活気に満ちていた、そう網野善彦は主張する。歴史の記述からこぼれ落ちてしまいがちなアウトローの存在をすくいとって現代人の眼前に在らしめること、そうした一連の網野の仕事は今もなお新しい読者を増やし続けている。職能民の話はやはり興味ぶかい。

『村上春樹と日本の「記憶」  井上義夫

英文学者による本格的な作家論。インタビューやエッセイなどから、村上春樹の作品世界から具体的な意味をつかみ出していく。けっこうすごい。作品のモチーフになった村上春樹じしんの経験を具体化していくこの批評の試みは、逆向きにすれば、村上春樹が実体験をどのように作品化していったかという創作の秘密に迫るものでもある。およそ四半世紀前に書かれた評論だけれども、いまでもクリティカルだと思った。

『バーリンという名の思想史家がいた』 那須耕介

バーリンって面白そう、という刺激とモチベーションを与えてくれる一冊。辻まことやE・M・フォースターなど、バーリンの思想への補助線として那須が引いてくる作家のチョイスも面白い。「ディーセンシー」がキーワード。たとえば思想家のポートレートを作ることは、バーリンにとって自分と相容れない価値観を取り込むことの具体的実践である。相容れないものが社会の内部に存在してもOKだし、むしろ望ましいと考えるような構えを取ること。それを思想史という営為の根幹に置くこと。那須もイチオシしている『父と子』というトゥルゲーネフ論も読んでみたい。

『私が書いてきたこと』 富岡多恵子

自分は図太くなくむしろシャイなんだ、と富岡多恵子は語る。たしかにそれはそうだ。自分に酔うことができずに、突き放したところで書く、それを徹底的にやろうとした作家だと思う。文字が作り出す観念みたいなものも嘘くさく感じ、話しことばの方に足場を置くのも、ある種のシャイネスなのだ。とはいえ富岡はデリケートではなく、野蛮に勉強した作家でもある。あくまでも古典文学を実用的に、活かすことのできる道具として取り込んでいる感じがする。いくら物知りになっても使えんかったらしょうがないやんか、という潔さがあって、よい。

『ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』(NHKテキスト) 』 朱喜哲

自己の価値体系に偶然性の作用を認めるアイロニストでありつつ、残酷の回避を第一とするリベラリストであること。そして会話を打ち切らず、共感や想像力を拡張する新しい言葉遣いを発明し続けること。ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』はマイベストブック候補のひとつだが、これまでその魅力を他人には説明できずにいた。このNHKテキストを読んだことで、あ、こういう伝え方をすればいいのねと膝を打ったり、拾われなかった印象深いエピソードをふと思い出したりした。『偶然性…』を自分なりに再記述する上でのよいヒントをもらえた。

金には困ってません。