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クッツェー、ヴォルテール、柳田國男、吉田健一、加藤典洋ほか

本を読んでばかりいたように感じ、またぜんぜん読んでいなかったようにも感じる、ちぐはぐな1ヶ月だった。何かに忙殺されていたのか、熱に浮かされていたのか。ふわふわとしていて、最終的には舌先に砂糖の味とざらざらした感覚だけが残る、綿菓子のような7月。その読書記録だ。

J・M・クッツェー『マイケル・K』

マイケル・Kは礼を言わない。たとえ親切な男が「人間はお互い助け合うべきだ」という考えからKを一晩泊めてくれても。それは助け合いという営みの中にKの居場所がないからだ。社会から隔絶し、自分のキャパシティのなかで自由に生きること。その意味でKはルソーの自然人のイメージと重なる気がする。システムは彼を可哀想だと庇護し、あるいは役立つように矯正したがる。Kは抗わず、暴力のなすがままになり、囚われるが、何度もそこから脱出する。医師の章は『ウェルテル』みたいだ。中盤以降が俄然面白い。

山田詠美『ベッドタイムアイズ』

ま、こんな感じだろうな、と思っていたような作品だった。才気溢れる鮮烈なデビュー作というやつだ。いいなあと思う部分はいろいろあったが、特にはなればなれになってしまう土壇場になって、冷蔵庫に準備されているこれから食べるはずだった肉のことが思い出され、その細かい描写が続くところは感銘を受けた。予定されていた幸福が一瞬のうちに駆け巡る。寸前のところで指の隙間をすり抜けて行ったものを惜しむように。映画化されていたのは知らなかった。監督は神代辰巳だったというが、たしかに神代のもつ抒情的な作家性と親和的な作品に思えた。

千種創一『砂丘律』

乾いたふうな描写に出会うたびに、それがかつてもっていたはずの湿り気の方に意識をとられる。心を乾かしてくれるユーモアはほとんどなく、感傷がただ煮詰まっている。修辞の鎧を剥いでみれば、案外ラッドウィンプスと同質の骨組みが見つかるのではないか。個々の歌を既視感のもとにながめてしまう。一首の歌は一枚の写真のようなもので、かつてあった瞬間のまぶしさを強く感じさせると同時に、今はもうないという詠嘆が大急ぎで付けくわえられる。それが写真集みたいに退屈。世評の高い歌集だが、いまのおれが読むべき作品ではなかったのだろう。

川端康雄『『動物農場』ことば・政治・歌』

この作品のブタたちがスターリン、トロツキーを擬しており、その物語がソヴィエトを風刺する内容なのは既知(読めばわかる)だったが、その他の登場人物やその行動、事件についても細かい対応関係が見出せるという。つまり、アレゴリーとしての『動物農場』は一読して分かるよりもさらに見事な代物だった。また、アレゴリーという概念についてあやふやな理解だったけど、この本のおかげで頭の整理ができた。同系列の隠喩が連なることでそこにアレゴリー(諷喩)が生まれ、さらにそれがセンテンス、段落、章を作ることで、寓話(アレゴリー)となる。

吉田健一『東京の昔』

小説にはこういうこともできるんだな。あらためて小説の、表現の「器」としての豊かさみたいなものを感じる。これまで吉田健一の作品のユニークさは理解しつつも、一方で不遜ながら物足りなさを感じてもいたが、それを払拭するにあまりある名作に出会えたことが嬉しい。お見事。思弁的でありながらも、そこで使われることばは概念になってしまう一歩手前のところで留められている。元ネタなだけあって、保坂和志のどの小説よりもすばらしく感じる。個人的には。

加藤典洋『敗戦後論』

謝罪や追悼にまつわる論争的な部分よりも、太宰やサリンジャーの「戦後」について論じている部分がひたすら面白い。加藤典洋の代表作という評価を与えられているのも納得がいく名評論だ。思うに加藤の批評の特徴というのは、俎上にあげられる個々の書き手・論者の位置づけや評価にやや意外性があるところだと思う。だが、そうであるからこそ文章自体は平易なのに、ときどきひどくとっつきにくくもあり、また要約を跳ねのけるようなアンバランスさがあるのもまた事実だろう。いつかまた読みなおすと思う。

柳田國男『先祖の話』

予想していた内容とは違った。でも随所にほほう、と思うことが書いてある。東京大空襲の真っ只中で、先の戦没者の霊について思い巡らせながら書かれた、という側面ばかりが強調されるのは、ややもするとミスリーディングではないか、などと思った。上手くは言えないのだが、柳田の作品にはなんかミステリアスさがあって汲み尽くせない。どういう本だったか説明しようと思うと、まごつく。…べつに狙ったわけではないが、この本は、家とか一族とかそういうことを考えずにはいられない現在の自分の状況にフィットしていた。

竹内洋『革新幻想の戦後史 上』

大学生のときからいつか読もうと思っていた本。10年越しの積読を解消した感じ。著者による回顧という形を保ちつつ、書かれているので読みやすく分量の多さも苦にならなかった。雑誌『世界』が実際どの程度読まれていたのか、またそれは左派の人々のうち、どういったイデオロギーの持ち主を主な読者層としていたのか。政治史を追うだけではわからない、論壇とか時代の空気が伝わってくるひじょうに面白い本だった。旭丘中学の話とかマジでぜんぜん知らなかった。

竹内洋『革新幻想の戦後史 下』

「進歩的な」平和論に対する福田恆存の批評とその余波に対する丁寧な検討、福田と清水幾太郎の挿話を面白く読んだ。また、どちらかと言えば右派の担い手として出発した小田実がベ平連を境に典型的左派の一人物というポジショニングに変わって行くこと、石原慎太郎がべ平連の代表に担がれる可能性があったことなど、様々な歴史のイフや裏話にも楽しませてもらった。石坂洋次郎の小説は革新幻想が草の根にまで広がることを下支えする機能を果たしていたと指摘する終章は、数年前の三浦雅士による石坂の再評価を思い起こさせる。

ヴォルテール『カンディード』

偶然の再会が起こりまくる何でもありの展開は、『ドン・キホーテ 』内の短編小説(登場人物たちのエピソードトーク)のようだ。あまりにもスピーディーに突き進む地獄の日々に底はなく、打ちひしがれるたび悲惨が襲いかかってきて、ただ途方に暮れるしかない。(浮き上がっても、引き摺り下ろされる!)幸運により手に入れた大金には、人がたかる。まるで糞に纏わりつくハエのように人々は、何とか金を掠め取ろうとするものだ。絶望を笑い合える友を得て、真面目に働きながら日々過ごすことだけが、終わりなき悲惨を遠ざけるための手段だろう。


金には困ってません。