見出し画像

2023年6月の読者

実家に帰ったときにイヤホンを忘れてきたので、今月はほとんど音楽を聴かなかった。でも、通りすがりの風景がふと音楽的に思えたりする季節ではあるので、イヤホンが無くともそれほど気にならない。特に夜にあっては。…などと、意味ありげな言明でお茶を濁したくなる程度には草臥れている。そんな6月の読書記録。

泉鏡花『歌行燈・高野聖』

「高野聖」は怪奇・耽美の作家、泉鏡花の面目躍如といった感じで大いに楽しめた。他の収録作品はおどろおどろしさよりも、とにかく抒情に傾斜したものが多かった。「女客」は冒頭から会話劇風に進行するので読みやすいけど、それ以外の「国貞…」や「売色…」や「歌行燈」は、序盤には何が書いてあるのやら分からなくて戸惑った。でも読み進めて会話が多くなってくると、だんだん状況が飲み込めてきて、霧が晴れてくる。昔読んだ『春昼・春昼後刻』はもっと苦労して読んだ気がするので、読者としてすこしは進歩したのかも。

野家啓一『歴史を哲学する』

野家啓一の他の本(『科学の解釈学』とか)を読んだことがあったので、内容はするんと入ってきた。知識のネットワークに着目するクワインの全体論に立脚しながら、ダントーの物語り論に沿って展開される歴史哲学的考察。大森荘蔵を引用しながら過去の実在について考察するところとかも面白かった。遅塚に対する批判応答を試みる補講も面白かったけど、やっぱり完全に決着がついた感はなくて、歴史家の言う「事実」みたいなものの重要性は疑うべくもないと思った。もちろん言葉の定義があやふやだから足元を掬われるのは仕方ないんだけれど…。

景戒『日本霊異記』

まあ、基本的には悪行に手を染めたり僧を無碍に扱ったりする者は必ずその「報い」を受けることになる、という話のオンパレードで、全体を通すとやや退屈なんだけど、ときどきやたらとシュールだったり幻想的だったりして面白い。因果応報。それをひたむきに信じる心というのは、運命のでたらめな過酷さを少しでも理解可能なものにとどめ置きたがる人間の弱さから生まれるのではないか。ひどい辛苦を味わった人に対して「こんな報いを受けるのはひどいことをしたからに違いない」と考えて、その人の人生に遡及的に悪行を発見すること。このアブダクションこそが説話の源なのだ。

鴨下信一『忘れられた名文』

忘れられた名文というのは要するに雑文のなかの名文ということである。文学作品のなかの際立った文章ではなく、読み捨てられるべき雑文において不思議な生気を放っている文章を、著者は嬉々として拾い蒐める。著者によれば、そうした文章というのは何より「実用的」であって、われわれのいわゆる普段着の文章表現は、そういう雑文を元に作られているという。記録の表面には残らないが記憶の底に残っている、そんな「読ませる」文章の数々、そこに投入された名もなき技芸の数を蒐集するという野心的なコンセプトなのだが、正直言ってあまり楽しめなかった。

ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』

ホッブズとは対照的に、ルソーの想定する自然状態は安穏と自足を基調としている。つまり他人の介入のない淡々と暮らしこそが人間の本来的なあり方ということだ。まずこの認識が面白い。しかし人間はその幸福な自然状態から離れ、他者とともに生きるようになり、競争と不平等が進展しはじめる。一度動き出せばそれはもうどうにも止まらずに、行き着くところまで行く。しかし興味深いことに不平等と専制の極致においては、ある種の平等や自由が戻ってくることをルソーは示唆する。『社会契約論』の原型とも言うべき逆説にしびれる。

桑原武夫編『ルソー』

いちおうこの一冊でルソーの代表作をカバーしているけど、それだけに解説がいささか急ぎ足になってしまっている。全体的にはあんまり「乗れる」本ではなくて、分量のわりに通読に手こずった。でもルソーにおける自然とか教育についてはいいことが書いてあったと思う。あと、最後の方にある生涯や時代背景の解説は短くかつ面白くまとまっていてよいのだが、本の構成としてはまず最初にそれを持ってきた方が良かったのではないか。まあ読みたいところから読め、いちいち構成なんて気にすんな、という意思表示ならば、それを擁護してもいいのだが。

青山南『翻訳家という楽天家たち』

翻訳家・青山南のエッセイ。80年代感(僕はぜんぜんその時代を知らないが)を感じさせる、すばしっこく駆け回るような軽薄な文体が読み手を選ぶだろうが、僕にはまあまあ面白かった。青山はイーディー・セジウィックに惚れ込んでおり、たびたび彼女について書く。たとえばイーディーの髪はブロンド・オン・ブロンド、つまりブロンドをしのぐブロンドだったと。それを読んで僕は、えっ、もしかしてディランのあのアルバム名はそこから?と思ってググったけど、それらしい情報は出てこない。ただ、あのアルバムが出たのはイーディーとディランが破局した年であるようだ。

金には困ってません。