仲正昌樹『プラグマティズム入門講義』

とても分かりやすい。が、やや冗長でもある。仲正昌樹によるプラグマティズム講義。ジェイムズの『プラグマティズム』とデューイの『哲学の改造』を読んでいく、6回分の講義が収録されている。著者はたえずテクストに即して、適宜必要な背景知識を補足し、原著で展開される議論の過不足に鋭く突っ込みをいれ、さらに日本語訳の不備についてもきっちり指摘する。ところどころで差し挟まれる(ネット上に一定数いるらしい)著者のアンチたちに向けた牽制球に関しては、無くもがなという気がするが、全体的には見事な解説書に仕上がっている。

仲正昌樹は誠実でありかつ優秀な解説者である。けれどもそれだけにかえって読者の勤勉さが試される気がする。その語り口がとっつきやすく、滑らかなので、あんまり理解していなくてもどんどん先に進んでしまえるのだ。その瞬間は分かったつもりでいても、しばらく時間を置くと、その実感も内実を伴わないものになっている。なんにせよきちんと理解しようと思ったら、ゆっくりじっくり読まなくちゃならん、それしかねえぜ、というのは当然のことなんだけど、改めてしみじみそう思った。

白状すれば、要するに、僕は大雑把に読んでしまったわけである。全体の内容をまとめることはできそうにない。なので、ごく最初の方のデューイに関する記述を抜き書きしてお茶を濁しておく。

戦後日本におけるデューイ受容

デューイの思想と日本の戦後民主主義の関係についての記述。戦後社会において受容されたデューイの教育思想とはどのようなものだったのか、そしてそれは何ゆえに広く受容され得たのか、ということをめぐる仲正の考察を以下に引用する。

教育学への影響、主体性を育てる、「総合学習」

 日本の終戦後の教育学で、彼の理論が積極的に受容されたことはよく知られています。(略)従来の詰め込み教育ではなく、子供たちの主体性を育てる教育によって、民主主義を定着させねばならないということが提唱される中で、子供たちに生活に密着した様々な実践をさせながら、主体的に法則を発見させていくデューイの方法が、モデルとして注目されました。『学校と社会』にその実例が紹介されています。例えば、ネイティヴ・アメリカンの生活を学ぶのに、彼らの機織り機を自分たちで作って機を織ってみるとか、家庭科で単純に料理を作るだけでなく、その材料に関連して地理学、歴史学、生物学、化学なども学ぶとか、個別の分野に人為的に区分けすることなく、一つの実践を通していろんなことを総合的に学ばせようとするわけです。現在日本で総合学習と呼ばれるものをもっと徹底してやるわけです。(p44-45 強調は引用者)

プラグマティズム=リベラル左派?

 子供の自発的な学習や社会的交流の促進を教育の目的にし、それによって民主主義を発展させるという考え方自体は、アメリカ思想を資本主義の権化として敵視する日本の左派から見てもあまり文句を付けにくかったせいか、デューイの教育思想は戦後の日本にそれなりに広く浸透しました。(略)また、教育を通じて民主主義の定着を訴えるデューイのイメージと、プラグマティズムの紹介者で非マルクス主義左派の市民運動家である鶴見俊輔さんのイメージがなんとなく被さって、プラグマティズム=リベラル左派というイメージができあがったのではないか、と思います。
 実際デューイは、女性や労働者、有色人種の権利向上を図る運動や言論の自由を守る運動にコミットし、国家社会主義と資本主義の中道を行く「民主的社会主義」を標榜していました。(p46-47 強調は引用者)

パース、ジェイムズに比べると強くない宗教色

 政治・社会運動に積極的に関与したデューイに比べると、パースやジェイムズは、政治的ではありません。その代わり、先ほどお話ししたように神や宗教体験に拘ります。デューイは逆に、宗教色をあまり出しません。宗教を前面に出さずに、民主主義を積極的に擁護するので、デューイは日本人には一番受け入れやすいし、ローティのような分析哲学者でリベラル左派という立場の人にも受け入れやすいわけです。(p47)

金には困ってません。