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いまの気分

スポーティーなものが好きだ。どれほどすばらしいものでも、何かしらの形でスポーティーなところが見つからなくちゃ嫌になる。そう、スポーティーが至上命題なのだ。逆に言えば、繊細で研ぎ澄まされた感性、それが落とし込まれた作品が苦手である。もちろん、かといってどんくさくてのろのろ、じめじめしたものなど論外だ。そんなのは耐えられない。

スポーティーにチェックを入れて、ソートをかける。ネガティブでふさぎこんでばかりいるようなものであっても、とはいえなにかヤケクソな、空元気の気配を含んでいれば、愛するに足るだろう。たとえば、おっちょこちょいは好きだ。スポーティーであることに失敗すると、それはおっちょこちょいになる。

岩田宏が好きなのも、あんがいスポーティーということばで説明することができるかもしれない。(——いや、できない。単なる思いつきだ、忘れてほしい。)

京都で働いている。京都のまちは小さい。みみっちくてつまらない。それは僕の個人的な見解である。土地の人びとはそんなふうに思っていない。彼らは京都をあいしている。だがすすんではその魅力を語ろうとしない。ただ語られるのを待っている。そこに語るほどの魅力がないとは考えてもいないみたいだ。褒めてもらうことに慣れくさって、いつだってそれをバカみたいに待っている。ユーモラスな人物、勇気をもった人物が極端にすくない。京都はスポーティーではない。だからあまり好きじゃない。

どうでもいいことを言ってしまった。筆まかせ、指まかせ。出てくる言葉を文章みたいにしているだけだ。そういうものを時間が経ってから読みかえしてみたい。

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中国についての本でも読もうかな、と思っている。井波律子の本を久しぶりに読んで、そう思った。井波律子がそうなのか、中国文学がそうなのかはわからないけれど、ちょっとハッタリが混ざってもいいからとにかく面白い話をしようじゃないか、という姿勢がいつでも感じられて、それがすばらしい。肩が凝らず楽しんで読めるし、そのぶん知識も定着する。

日本の漫画の生みの親は、中国文学(漢詩とかじゃなく、志怪小説とか娯楽小説ね)だと思う。裏付けは何もない。

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中国史の研究者でいえば、岡本隆司はここ数年、たくさんの本を書いている。尋常じゃないペースだ。でもその書かれた本を読んでみると、なんとなくそのペースで書ける理由もわかる気がする。なんかこう、本を書くことに対する気負いのようなものが「渋滞」していないのだ。すべてを正確に、厳密に、そして膨大な情報をできるだけ圧縮して隙間なく書こうとはしていない。完成品は良い意味でスカスカ風通しのよい本に仕上がる。だから読みやすい。読みやすい本は好きだ。

こういうと誤解を招くだろうか。でも本当にそうなのだ。だからと言って内容が薄いわけではなくて、なんか東洋史におけるえらい先生たちについてのトリビアみたいなのも時々顔を出すので、勉強をした気分もしっかり味わえる。

とはいえすこし体系的にまなびたい気持ちもある。中国史のシリーズは、岩波新書でも講談社学術文庫でも刊行されていて、読破したいという欲望を掻き立てられる。ちゃんと知らないからこそ、余計にそう思う。僕の知らない国、中国。不勉強が身に染みる。

僕は中国史に疎いし、中国社会にも通じていない。中国人の友だちもいない。思えば、大学や大学院には中国からの留学生が何人もいた。仲良くなっておけばよかったな、といまさらになって後悔している。

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大人になりきったあとで世界を広げるのはむずかしい。ちょっとしたバーかなんかで夜の社交に勤しみ、自分とはちがう生き方をしている人と酒を飲みかわしたところで、たいして世界は広がらない。

全然別のところで生まれ、全然わからない言葉やしきたりの庇護のもとに育ち、全然ちがう墓に入っていく人びとの話を聞きたい。おおきな前提の違いを感じてみたい。街なかですれちがう海外からきた旅行客をみるたびにそう思っている。だけれども僕のほうから話かけることはまずないし、彼らと触れ合うための何らかの行動を起こすつもりもない。

怠惰でシャイなのだ。

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アルビニが死んだことをふと思い出して、最近はビッグブラックをたまに聞くようになった。

この金属感。こわばり。

おお、そうだった。

近頃はなんか自分を心優しい人間だと自己規定することが多くなったが、元来僕はこんな感じで、ギコギコ手当たり次第に身の回りのものを断ち切っていく、ノコギリのような心の持ち主だということを思い出した。

どんな音楽が好きなんですか? と聞かれたときにフガジが頭をかすめて(フガジは最高だ!)、ちがうそうじゃない、と打ち消してから、あんまり音楽は聞かないっすね、と答える。実際ここ10年は音楽をあんまり聞いていない。1週間ぜんぜん音楽を聞かないこともざらにある。

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つまらない話をする。

きのう、お弁当を持って行ったのにふりかけを忘れてしまった。おかずをお供にしてなんとか白ご飯を掻きこんだのだが、それでもやっぱりいくらかの白ご飯が余ることになってしまった。そこで、同じく弁当派の部下に聞いてみた。
「ふりかけ、余分にもってへん?」
するとカバンから、なんと2個もふりかけが出てきた。
「どっちが苦手なん?」
「実はどっちもなんです。両方もらってください」
なぜ苦手なふりかけを複数も持ち合わせているのだろう。ふりかけ詰め合わせセットを丸ごと持ちはこんでいるのだろうか。理由はよくわからなかったが、まあとにかくこんな幸運はなかなかないので、2つとももらっておいた。
ぼくは好き嫌いというものがなくて、ふりかけについても選り好みしない。もらったのは、おかかとわさび。その日はおかかにした。まあまあ、おいしかった。
日が変わって、今朝。妻が休みで家にいた。彼女は冷蔵庫のあまりものを片付けたがっていた。僕に片付けさせたがっていた。
「弁当、もっていくやろ?」
「うん」
「おっけー」
「ふりかけ、いらんから」
きのうもらったのがひとつ残っているからだ。わさび味。
「ちゃんとお礼しいや」
「ふりかけやで。大袈裟やな」
お徳用パックのアルフォートを二つ持たされた。会社に行って部下に渡した。ことのほか喜んでもらえた。
で、その夜。家に帰ったら、ちょうど妻が洗い物をしている頃合いだった。いますぐ洗ってやるから弁当箱を出せ、と言われた。出した。
「このふりかけの袋、懐かしいな」
「そう?初めてみたけど」
「けっこう定番のやつやで」
「おれん家はいつも永谷園やったから」
「お土地柄とかあるんかな。うちはけっこうこれ使ってたけど」
「ふうん、どこで製造されてるん?」
「知らん」
妻は袋を裏返す。製造は広島県だ。そして賞味期限は3ヶ月前だ。
「毒盛られてるやん」
「わざとちゃうやろ」
「わからんで」

金には困ってません。