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いまの気分

酔っ払って、電車を待っている。すこし胸の辺りがムカムカする。いつものように本を読むことができない。集中力が切れるからだ。仕方がないので暇つぶしに何か書いてみようと思う。

でも困った。何も書くことがないのである。音楽でも聴こうか。よろしい。『Tropicalia: Ou Panis et Circenses』の一曲目、「Miserere Nobis」にしよう。

これはいい曲だ。

でも、きょうは耳と頭のあいだにアルコールの残りかすが詰まっている。音楽がすんなり入ってこない。方向転換。イヤホンをはずし、ダメもとで本を開いてみる。当然のように1ページくらい読んですぐやめる。

読もうとしたのは、カーソン・マッカラーズの『悲しき酒場の唄』だ。この作品集は古本で買った。たしか『結婚式のメンバー』の新訳に感心した直後、たまたま古本市かなんかで見つけたので買ったのではなかったか。すぐには読まずに本棚に差した。ところが去年くらいに、この本を元にしつつ、そこにさらに新しく訳出された数編を加えたかたちで『マッカラーズ短篇集』がちくま文庫から出た。というか、そもそもそれが英語原典に忠実な構成らしい。収録作の少ない古本を所持している僕は、なんだか損をした気分になった。

もう新品では手に入れられない、自分が興味を引かれる本を古本でみつけ、きょう買わなければ後悔しそうだ、と思って買い、そうして買った途端に安心して本棚の肥やしにしてしまう。そうこうしているうちに、その絶版本があたらしい解説がついたり、増補されたりした上で文庫化されたりするのだ。聞いてないよ、と思う。文庫で出るなら、あのとき中古では買わなかった。

という話はどうでもいい。『悲しき酒場の唄』をまだ全然読み進められていないので、内容に踏み込めない。つまらないことしか書けない。どうでもいい話題のまわりをぐるぐる回る。

でも書く。

たぶん、書くことをもっとたいしたものじゃない方向に押し流すべきなのだろう。肩の力を抜いて、だらだらと文字を連ねる行為にたいする後ろめたさから逃れる。逸れる。離れる。そうすればもうそこは想像力の向こう側だ。ほら、平らで退屈な観念のグラウンドが広がっている。

僕は足元に転がる、ちょうどよい大きさの石を見つけてポケットに入れるだろう。そしてポケットに入れたまま、その事実を忘れるのだ。あるときふとそこに石が入っていることに気づいて、なんやこれ、と感じる。そのような時の訪れを、僕は待たなければならない。

というわけで、きょうは酔っ払ってしまったので、文章なんか書いてしまっている。特に書きたいことなんか何もないのに。

最近聞いている音楽の話でもするか。最近は「トロピカリズモ」という、1960年代後半ブラジルの音楽ムーブメントの周辺を漁っている。いや漁っている、というほどではないのだが、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ムタンチス、ナラ・レオン、ガル・コスタの曲をてきとうに聞いている。これらのアーティストは、この文章のはじめに貼りつけた、コラボレーション・アルバム『Tropicalia ou Panis et Circenses』に参加したアーティストたちなのだ。

『Tropicalia ou Panis et Circenses』の収録曲ではないのだけど、カエターノ・ヴェローゾのこの曲は耳にこびりつく。仕事中でもふとしたときに「サッサッサッサー」が口をついて出てきて困る。

白い煙がだんだん晴れていき、やがてそこに姿を現した音楽隊がすてきな楽器を鳴らしながら歌い、街路を練り歩く——そんなイメージが連想される。それもまた僕がこの曲を気に入っている一因なのだと思う。カンの『tago mago』に収録された「paperhouse」か「oh yeah」を聞くときにも、たしか僕はそうしたイメージを思い浮かべたものだった。それを確かめたくなって、いまめちゃくちゃ久しぶりに『tago mago』の該当曲を聞き直してみた。けれども白い煙のイメージが立ち上がることはなかった。

いや、まあカンの話はとりあえずはどうでもいいのだ。トロピカリアの音楽はいろんなものがミックスされているからなのか、いろいろと違う音楽のことを副次的に思い出してしまう。そのような話を僕はしたかった。しようと思った。たとえば、どことなくビーチボーイズっぽい曲。なんかフランクザッパを思い出す曲。女性ボーカルの曲からは、なんかよくわからんのだけど、フレンチポップのフレーバーを感じたりもした。

こういう自由連想は、あまり音楽に詳しくないからこそできる。逆に言えば、こうした連想について書けば書くほど、教養や知識がないのがバレてしまうだろう。どうしても的外れなことを書かざるをえない。でもたとえ的外れな思いつきであってもあとでそれが何かの役にたつことがある。

できるだけそういった思いつきを書き留めておきたいものだ。じっさいぼくは、断片的なフレーズのメモを引き延ばして詩につくりかえたことが、何度もある。適当な言いっぱなしとこじつけのストックが、案外あとで効いてくるのである。それこそが日記をつけることの意義だといってもいい。かもしれない。

詩やエッセイという表現形態は日々のメモの集積の上に、その引き継がれる長い足跡の延長線上にしか存立しえないような気がしている。

だから実験室というと格好をつけすぎだと思うけれど、まあ適当にタネをまいておく大きな植木鉢のようなものとしてネットを使う、という考え方は嫌いじゃない。もちろんネットではなく、完全にプライベートなノートブックを拵えてもいいのだけれど、それだとメモとしてのクオリティが落ちてしまう。クオリティの低いメモは、加工して出荷できる状態にするまでに時間がかかるにちがいない。

何の話だったか。そう、とにかく書くことを「たいしたもの」にしないことだ。ハードルを下げる。立派なものとして奉らない。つまり、極端な話をすれば、誰にも読ませようとはせずに書き散らせばいいのだ。

誰もいない夜の家路を歩くときのフォームで、書く
こと。たとえば、夜のうす暗い一本道でひとり、ガスをおしりから弾きだすように。——「そんなに大きな音も出ないだろうし、誰にきかれる心配もなさそうだ、このまま歩きながら…してしまおう」というような、妙な大胆さとくつろぎを両立させた感覚でもって、書く。書いてゆく。華麗なレトリックはいらない。何よりもまず、自分による検閲を突破する。突破させる。

ぷー。ぷぷっ。

あ、まだ書きたいことが一つだけあった。このまえ『京都思想逍遥』という僕のこころにはあまり響かない本を読んでいて、僕が26の年まで住んだマンションの近所に立命館大学のキャンパスがあったことを知った。京大と同志社のキャンパスはそこから割と近くにあったが、立命館の校舎までそのあたりにあったとは知らなかった。本当にあの辺には大学生がうじゃうじゃいたのだろう。

まとまらない。そろそろ終わるか。仕方がない。この冗長な文章から冗長さだけを除くなんらかの魔法があったとしても、使わない。くそくらえ、リーダーフレンドリー。少なくともこの文章には、ちゃんと一文字ずつ、一文ずつ、一段落ずつ読んでくれるような慈愛にみちた読者などいない。だから、余計な配慮はしなくてもよい。

ひたすらスクロール、スクロール、スクロール……でその途中で引っかかった言い回しだとか固有名詞で手を止めて、その前後から読んでくれるような、そんな読者を想定して書いてみる。あるいは読者なんか想定しないで、ただ手の動き、筆の動き、スマートホンの画面のうえをチョコマカ滑るこの人差し指の動きのままに、まんぜんと書いていく。そうしたことだって、きっと僕にはできるはずなのだ。

でも、なぜだろう。そういう慈愛にみちた読者を存在させてしまう。自分の文章に対して、まず自らがそういう読者として対峙してしまう。不適切なものは直せる。直さなければならない。消しゴムできれいに消して、適切な線を引いてやろう。ついつい、そう意気込んでしまう。

よせよせ、それをやりだしたらキリがないんだよ。気負わず適当にやれ。 


金には困ってません。