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六月病

 言うことより言わないことの方が増えた。いつのまにか抑制を覚えて、ほんとうに欲しいものを言わなくなって、未送信フォルダやtwitterの下書きばかりが増えていく日々に首を垂れる。

 小学生の卒業アルバムにクラスページのようなものがあって、自分の隣の席の女の子がそのページの担当だった。クラスメイト全員の「○○No1」を書くという企画で、あの子は文房具が好きだから文房具No1だとか、足が速いNo1とか、ポケモンNo1とか、まあそれぞれの特徴を捉えた一言を机の周りのクラスメイトたちとわいわい相談しながら決めていた。

 それで自分の番になった時、それまで「あの子はなんだろうな」「あの人はやっぱりあれだよね」と周囲に相談していた隣の子が、僕の顔を見て「きみはやさしさNo1だね。いいでしょ?」と言った。周囲から異議が上がることもなく、自然な話の流れとして気がついたらもう話は次の生徒の番になっていた。

 僕はあの時、早まる鼓動を自覚できないくらいには嬉しかったのだろう。あの子のあの台詞に恥じないようにと、今まで生きてきたのかもしれないと思う。でも今の自分はお世辞にもやさしいとは言えない。もう人の消しゴムを拾うことも教科書を貸してあげることもなくなった。いじわるをしている訳ではなく、単純に機会が減っていっただけ。

 昔わかりやすかった「やさしさ」という定義は歳を重ねる度に曖昧になっていった。宿題を見せてあげる人というのは「やさしい」ではなく「べんりな奴」になった。僕は人に宿題を見せないようになった。

 自分はわかりやすい世界でしか息ができないのだと気づいた。判断基準が複雑になると、自分の正当な評価なんてわからなくなってしまう。複雑なことは単純化すると良いけれど、そんな面倒な段階を経ないと自分がやさしいかどうかすらわからないことに悲しくなってきたりする。

 言葉はときに人を縛りつける。善かれと思って他者に投げかけていた言葉が、実は他者を縛っていたりする。それに気づいたとき、もうなにもしたくないと思った。生きている意味が分からないというよりは、今までどう生きてきたか、その過程を忘れてしまった。ゲームのようにリセットしたいとも思うし、もう充分に生きたな、とも思う。

 ずっと夢を見ている。朝が来て、夜が来て、また朝が来る。日記に書くことが少なくなって、いつしか書かない日が増えていった。周囲に相談したらどうやらみんな「そんな時期」のようで、自分の体を蝕む深刻でプライベートな悩みが、人間の成長過程の中でマジョリティが容易になり得る「モラトリアム期によくある悩み」として吸収されてしまうと、途端に無気力になる。自分がマイノリティであると信じたいマジョリティの中にいる一個人の感情は一体どこに向かうのだろう。

 あの映画に出ていた脇役はどこかで幸せな日常を送っているだろうか。読み終えた小説の先に広がる、文字未満の世界に思いを馳せる。そんなユートピアで生きていけたらいいのに。

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