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存在
一人の人間が、この世からいなくなってしまった後。
「もういない」ということが、どういうことなのか思い知らされるのはいつも突然だ。
いなくなってしまったすぐの時は、頭がガツンと殴られたような衝撃が大きすぎて、ただ悲しい。埋めようのない大きな穴が空き、それをただ茫然と見ている。
朝、目覚めた時に「ああ、もう本当にいないんだ」と不在を噛み締めて自分に言い聞かせる。これから、「いない世界」を生きていかなくてはいけないのだよと。
親しい人に知らせたり、お葬式があったり儀式をこなしてくことで悲しみが少し紛らわされたりもする。亡くなった原因がなんであれ、なんとかできなかったと後悔する。食い止める方法は、本当になかったのか、やりようはなかったのか。何度も何度も思い返して、無力感に打ちひしがれる。たとえ何回「君はよくやったよ」とたくさんの人に言われても、なんの慰めにもならない。
記憶や思い出が、喪失を埋めていく。でも、足りない。思い出は増えないし、喪失はどんどんと広がっていく。写真や映像も、わずかな時間慰めてくれるけれど、それだけだ。
「いない」ということで、存在の大きさを教えられる。そこに私が、愛情も怒りも反発も思い切りぶつけられていた。そして、かの人もそれを全て真正面から受け止めてくれた。
もう二度と、私にとってああいう人は現れないだろう。あれほど愛情と怒りを思い切り、遠慮なくぶつけられる相手は。
不在が、いろいろなことを変えていく。
いなくなっただけなのに、ただ、そっと消えてしまっただけなのに、起きなくなることがある。それは、その人がしていたことなのだと思い知らされる。
その人がいなくなったことで、態度が変わる人がいる。びっくりする。私に向けていた丁寧さは、私にではなく、私の後ろの人に向けられていたものだと自覚して、ガッカリする。
その人がいなくなっても、起きることがある。そうして、やっと気づく。
ああ、あれは、あの人の仕業じゃなかったのだ、と。全く違う風に捉えていたのだと気づく。この気づきは、そのことに収まらず、あらゆるものを違って見せる。ヴェールがかかっていたのだ。他の人のごまかしや、逃げで脚色された世界を丸ごと信じていた自分はなんて愚かだったのだろう。残った人の嘘に、次々と光が当てられていく。
誰もが同じように悲しんでいるわけではない、と知る時、とても残念な気持ちになる。あなただって、十分にあの人から受け取っていたではないかと言いたくなる。でも、言わない。
それぞれが見たその人は、別の姿をしていると今の私は知っているから。こんな良いところもあったよ、と言わない。否定されるから。否定されたら、悲しみが増すだけだから。
同じ横顔を見ていた人たちとだけ、いなくなってしまった人を偲んで、思い出を語る。そして、そういう人はとても少ない。確かに同じ場所にいたのに、全く違うところしか見ていなかったり、覚えていなかったり。
守っていてくれたんだな、と思う。
私の存在が、力になっていたのだと信じることができる。
愛されていた。
私も愛していた。
寂しい。
悲しみや喪失が、いつかもう少し、薄まってくれることを願う。
でもきっと、愛は薄まらない。
もっと年老いた時、薄まらない愛だけで生きていられたら、多分私は幸せだ。
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